隠居の独り言(822)

歌うのが身体のためにとてもいいのは、例えば声楽家が声を大きく出すときは
吸った空気を少しずつ吐いていく。吐くと肺の気道中の空気が少しずつ減って
真空に近くなっていく。すると吸おうとしなくも自然に空気は肺に入っていく。
歌うときの呼吸方法は瞬間的に息を吸って歌いながら徐々に空気を吐くという
横隔膜を効率的にうまく使ってこそ可能であるので腹式呼吸になり、健康には
非常にいいという。丹田式呼吸法や禅の呼吸法も息を溜めて徐々に吐く方法で
横隔膜の運動になり、循環器や消化器の動きにも関連している。話がそれた。
疎開先の福島県の生活は関西から来た余所者の一家にとって決して楽でない。
農家に親戚もツテも無く戦時中の配給される食糧だけでは飢えを待つばかり・
折から病身の父にも赤紙が来て働き手を失えば食べるために一家して働いた。
困窮の中で能天気な少年は歌を歌って気持ちを紛らわせていたかも知れない。
当時の中国は支那と称されて戦時中の流行り歌は大陸に関する歌が多かった。
討匪行、支那の夜、何日君再来、夜来香、満州娘、等々、満州支那に憧れた
軍国少年はいつも歌った。戦争はますます敗色が濃くなり昭和20年初期には
日本の制海・制空権は完全に敵軍に握られ三陸沖に停泊中のアメリカ空母から
毎日のようにP51戦闘機が白河の上空を低飛行で関東方面に空爆中の爆撃機
援護するために通過していく。空襲警報は連日鳴り続けその都度近くの建物や
森に逃げ回ったが東北地方にも爆撃の被害が押し寄せ郡山市空爆を受けた時
一晩中、夜空が真っ赤に染まって戦慄した。子供達が声を枯らせて鬼畜米英!と
叫んでも、いくら軍歌を歌っても日本に利あらず遂に夏の盛りに敗戦の日が来た。
父の硫黄鉱山は鉄砲の弾の戦需品だったために戦争の終わりとともに閉鎖された。
一家は収入も途絶え再び逃げるように白河を去った。昭和21年夏、父の故郷の
姫路への超満員列車に揺られた暑い24時間の旅だったが、苦労を和らげたのは
やはり歌を歌うことだった。歌は世につれ、世は歌につれ・・歌が時代を蘇える。