隠居の独り言(843)

歴史は弱肉強食のトーナメント戦だが、それゆえに潰されたほうは怨恨が残る。
戦国末期には山陽、山陰十カ国を制覇し瀬戸内海の殆どの制海権を握り西国の
覇王だった毛利家は関が原の戦いに破れ一朝にして没落大名になってしまった。
徳川家康の命で領地は5分の1になり僅か周防、長門の二カ国に閉じ込められ
本城も山陽は好ましくないと日本海側の萩に追いやられた。家臣も禄の殆どを
失って、それでも殿様に付いていくと泣きながら萩へ続く街道を歩いたという。
絶望と怨嗟のなかで大半の武士は阿武川の三角州の低湿地の萩の地を開墾して
農民として生きる道しかなかった。徳川家によって一族は窮境に落ちたという
家系伝説で代々の藩士は寝る時は江戸に足を向けたという。その怨念250年余、
幕末に高杉晋作伊勢谷友介)がクーデターを起こした時、集まった農民達は
かつて旧藩士と称する者ばかりだった。全国三百諸藩の中でも特に抜きんでた
倒幕に対する長州藩の精神力と団結力の強さは関が原の怨恨が根本といえる。
薩摩も同じことで関が原の後に滅ぼされようとしたが九州南端の地は関東より
あまりに遠く諦めた経緯がある。それでも徳川の潜在的敵国として薩長に対し
名古屋、大阪、姫路の三大城郭を作り防衛線とした。要するに幕末期における
薩長対幕府の構図は関が原の裏返しというべき怨念の復讐戦の様相であった。
泉下の徳川家康薩長を無理しても滅ぼすべきだったと歯軋りしたに違いない。
ドラマはユニオン号を下関に運んだ竜馬(福山雅治)達だったが購入にあたり
近藤長次郎大泉洋)と長州藩井上聞多の二人だけで締結した条約の内容は
「代金は長州が払い薩摩の旗を掲げる。操縦、運営は社中が担当し、有事には
武装して薩長両藩のため戦う」というものだったが長次郎の独断でした契約が
社中のメンバー達に不快感を買って責められる。失意の長次郎は長崎に戻るが
グラバーからイギリスへの密航・留学を勧められ、社中での居場所を無くした
長次郎は密航を決意するが、折から海が荒れ出航できなくなってしまう・・