隠居の独り言(983)

関ヶ原の合戦壇ノ浦の戦い鳥羽伏見の戦いと並んで日本を大きく変えた事件で
学校で歴史を学び多くの史家や小説家が書き下ろし大勢の日本人が知っているので
詳細は省くがそれは文字通りの天下分け目の合戦であって日本の大きな節目だった。
その勝利によって徳川氏の支配体制が固まり我が国のそれ以降の二百数十年に亘る
徳川の時代が続くことになる。戦いは東西両軍あわせて十万以上の兵力が対峙して
日本史上にも最大規模の戦闘であったが戦いは戦闘的な衝突よりも政治的な性格の
強いもので、いかに多くの兵力を集め、いかに兵力を味方にするかの政治的策謀の
成否が関ヶ原の勝敗を決めたといえる。それは豊臣秀吉岸谷五朗)の跡目争いで
東西の勢力は前から敵味方に分かれていたわけでなく殆ど秀吉の直臣たちであって
かつて同じ釜の飯を食った仲間同士が秀吉死後の指揮権を巡って争いをし、それを
実力者の外様大名の家康に上手く利用された。それでも戦いの最中まで西軍は迷い
総大将・毛利輝元は戦線に出ず一族の毛利秀元安国寺恵瓊小早川秀秋が裏切り
毛利一族の消極性と不統一が東軍を勝利に導いたがそれは家康の戦略の勝利だろう。
対する西軍の三成(萩原聖人)の度胸は見上げたものだが人物的に勝ち目は無かった。
たしかに三成は計数の達人であり官僚的な美徳感の優れた人物だったが潔癖過ぎて
激しく不正を憎んだがそれは心の狭さに通じて人の反感を買う事もしばしばだった。
関ヶ原大芝居の幕切れは三成が小西行長安国寺恵瓊とともに鴨川の六条川原で
処刑された。辞世もない。死の直前に慣例によって上人が十念を授けようとしたが
三成は断り「泉下で太閤殿下に謁するのが楽しみである」と言い終えて首が落ちた。
大河ドラマ「江」は、江(上野樹里)が関ヶ原で徳川方の大勝利に終わった知らせを
聞いても秀忠(向井理)が戦いに遅れた事を知って素直に喜べない複雑な気持ちだが
そのとき自身が妊娠していることに気づく。一方の秀忠は大津に到着するも家康に
会ってもらえず自分の失態を悔いていた。