隠居の独り言(1049)

昔は「いたずら」と云う言葉にはどこか愛嬌が含まれていた。いたずら小僧とか
憎まれっ子がいて周りの人の手を焼かせていたが何処か憎めないところがあって
大人は彼らに寛容だった。むしろ小さい頃は生意気ぐらいが成長の証しとされた。
いたずらは悪戯と書き悪い事も遊びの戯れの一つであって悪を為すの意味でない。
しかし現代は事情が昔と全然違う。現代のいたずらは犯罪であって戯れとは違う。
京都府亀岡市府道で集団登校中の小学生らの列に軽乗用車が突っ込み、10人が
死傷した事故は例え18歳の少年といえども、いたずらの許容を遥か超えている。
しかも事故を起こした少年だけでなく車に乗った入れ替わり複数の少年達も彼の
無免許運転を承知だったというから呆れる。父親は子供が車を運転していたのを
知らなかったと言うが少年は日常的に友人とドライブしていたというから父親の
言い訳は許されない。いたずらの質が昔より悪質化しているのに法は変わらずで
無免許でも人を殺傷する意思が無ければ過失致死傷だけで最高懲役7年らしいが
専門家によれば最高懲役20年の危険運転致死傷罪を適用するのは難しいという。
では何のための運転免許証なのか。車に関して言えば危険運転とは無免許であり
酒酔いであり猛スピード運転以外の何ものだろう。危険を承知で人を殺めた以上
危険運転致死傷罪を適用するのは当たり前で被害者からすれば絶対納得できない。
かつての社会は善意の文化で構築されたものと信じていたが現代は無数の事件で
構築されている気がしてならない。それらの認定は司法が行うが時代の流れには
法律が付いていけず法に書かれた意味合いを黒で読む人と白で読む人に分かれる。
真理は一つであるはずなのに現代の裁判所の判断は首をかしげる事案が多過ぎる。
オウム然り、小沢一郎然り、司法の寛容の精神は法を犯した人や法律の建前より
あくまで被害に遭った人の立場であって欲しい。