隠居の独り言(1051)

GWが終わった。今年は長期間のGWだったが普段の生活リズムが変わると
体はナマル気持ちも落ち着かない。今日からやっと元に戻った実感がするが
そもそも貧乏性なのだろう。でもこれから歳相応にゆっくり歩くことにしよう。
「柳、やなぎで世を面白う、受けて流すは命の薬、梅にしたがい、桜になびく
その日、その日の風次第、嘘も誠も義理もなし」江戸時代に流行った端唄だが
歳を重ねると仕事の情熱も世間の義理も薄れて残りの時間を費やすだけになる。
余生というと世に何事かを成し遂げた後の残りの人生の意味が一般の認識だが
それは金銭絡みの視点の雑念が入っている。甲斐性があって相当の蓄財を貯め
少しでも長く生きたいという執念があると死が理不尽と思うようになるだろう。
幸か不幸か自分は人様以上の才覚も無いし蓄財もあまりないので生きる執念は
そんなに多くは無い。これからの人生は老いも病も死ぬことも神さまが決める
オマカセ・コースメニューに任せてある。だから今では仕事などそっちのけで
遊び放題、やりたい放題で暮らしている。昔から粋な人とか風流な生き方とは
日々の風の流れに身を任せ遊びに凝っている行為を指す。だから形に見えない
色・恋・愛が好きで能天気のようでもラテン音楽の愛の歌詞に没頭する所以だ。
ラテンの男は風流だ。年中恋をして女に振られ泣き節を歌いながら日柄過ごす。
その昔パンチョスが歌っていた「裏切り」Perfidiaは不実の愛で苦しむ歌だが
ラテンの歌を歌う愉しみの神髄は尽くせど尽くせど情の無い女に惚れたが如き
因果なマゾヒズムにある。果てしなく無残な、つれなさを男は哀しく絶唱する。
「裏切り」のみならず殆どのラテンの名曲は失恋の痛手から生まれたといって
過言でないだろう。失恋の悲しみを経てこそ人情味の機敏を知るのではないか?
ラテン音楽は卒業のない情感学習と思う。恋にマニュアルが存在しないように
所属しているTrio Amistadのリーダーはその場の雰囲気で即興的なアドリブも多く
楽譜に捉われない、その場の風次第、本物の粋を味わっている自分は幸せ者だ。