隠居の独り言(1132)

NHK大河ドラマ「八重の桜」の物語も東北の片田舎にある会津藩も幕末の混乱の中に
入っていくことになるが日本で数少ない雄藩であるゆえに藩主の判断が非常に難しい。
会津藩が「かりそめの恋」から出発しているのは先週に書いたが初代藩主・保科正之
家訓を制定し第一条に「会津は将軍に対し一途に忠勤に励み二心を抱いてはならぬ」と
言い残している。この正之の遺訓が幕末まで会津藩の藩是となった。今に伝わる会津
「ならぬものは、ならぬものです」の言葉はこの藩是からきている。後200年続いた
会津松平家は8世殿様に子がいなかった。そこで縁戚の美濃松平家から養子をとり
嫡子とした。これが9代藩主・松平容保綾野剛)で容姿に優れ才気があったという。
戦国時代も遠い昔で、当時の大名の殆どは暗愚な人物で典雅な飾り物に過ぎなかった。
その飾り物の中でも容保は学問に優れ江戸の殿中でも評判の大名であった。でも虚弱で
その辺りはボンボン育ちの典型といえる。その上容保の妻になった照姫(中西美帆)も
生来身体が弱く15歳で結婚をしても閨を共にすることは容保の優しさが我慢をしたし
養子の遠慮もあったのか側室は持たなかった。容保は公私ともに律儀な人物でもあった。
幕末とはペリーの黒船来航(1853)から京都二条城の徳川慶喜(小泉幸太郎)の大政奉還
(1867)までの14年間を指すが黒船来航の時は容保が19歳であった。その間に巷では
尊攘の志士たちが世間を騒がし大名も賢候といわれた薩摩、水戸、福井、伊予、土佐の
殿様たちが奔走して大老井伊直弼榎木孝明)に弾圧されたりしたが、容保は沈黙し
あくまで徳川一門の意地を通したのが、会津藩の運命を悲しいまでに変えることになる。
1858(安政5)年、西郷頼母(西田敏行)の松平容保への働きかけが実り覚馬(西島秀俊)の
禁足が解かれ八重(綾瀬はるか)もわがことのように喜ぶ。さらに尚之助(長谷川博己)の
教授方就任も叶い覚馬はうら(長谷川京子)を娶ることになった。いっぽう江戸城では
後継将軍を巡って紀州派と一橋派が争っていたが大老に就任した紀州派の井伊直弼
攘夷佐幕派水戸藩徳川斉昭(伊吹吾郎)ら一橋派や朝廷に無断で日米修好通商条約
締結する。激怒した斉昭らは井伊のもとへ押しかけるが…。