隠居の独り言(1137)

NHK大河ドラマ「八重の桜」6回は「会津の決意」だが、幕末の歴史が流れる過程で
会津藩の容保(綾野剛)は、薩摩や長州と違って徳川家の親藩としての律儀と勤皇への
忠誠心は他藩を抜きんでていた。それは初代会津藩主の保科正之の制定した家訓による。
時は井伊直弼小栗旬)のいわゆる安政の大獄の辺りから京都では治安が悪化していた。
悪化というより無政府状態だったといえる。名も知れぬ尊攘浪士が跳梁し彼らの黒幕は
長州藩佐幕派,開国派の家に押し込んで斬り、斬れば必ず鴨川の河原に首を晒して
思想的罪状を記し「よって天誅を加えるもの也」と捨札を立てて人々を震え上がらせた。
浪士たちは殺人だけでなく夜中に商家に「攘夷御用金を出せ」と強要し強奪した金で
遊郭で遊興し気勢を上げていた。それまで治安を取り締まっていた所司代奉行所
手も足も出なかった。井伊直弼が暗殺されたあとの幕政を引き受けたのは松平春嶽
徳川慶喜小泉孝太郎)だったが、京の天誅浪士の治安悪化は捨てておくべきでない。
その対策は強大な警察権を与えた軍隊を置くべきだが、黒幕の長州、薩摩、土佐相手で
内戦になるかもしれない。本来なら旗本八万騎といわれた直属の軍隊がいるはずなのに
家禄を貪るばかりで旗本の無能、遊惰、危機感の無さは目を覆うばかりで、戦国時代に
あれほど強かった徳川軍の片鱗も無く本家の旗本も譜代の各藩も300年の長い平和で
武士とは名ばかり、武術の普段の鍛錬も無きに等しく、しきたりばかりの脆弱だった。
何のための旗本か!泉下の徳川家康は泣いている。頼みは親藩会津藩しかなかった。
事実、徳川連枝の諸藩の中で会津藩の家風は武芸が盛んで藩士の教育水準が他藩に比し
くらべものにならぬほど高く、しかも秩序は鉄壁のように強靭でいつも練兵も怠らない。
松平春嶽徳川慶喜は容保に会津藩の京都護衛役を頼んだが、とても引き受けられない。
京を鎮撫し、在住の諸藩を操縦し、公家を懐柔し、いったん緩急あれば薩長土の三藩と
全面戦争も避けられない情勢であれば会津藩の壊滅もありうる自殺行為に等しかった。
それでも容保が藩の滅亡を賭してまで京都護衛役を受け「戦場で死ぬ覚悟」と言った時、
家老・田中土佐(佐藤B作)西郷頼母西田敏行)はじめ家臣みなが号泣したという。
ドラマは八重(綾瀬はるか)の幼なじみ、山川大蔵(玉山鉄二)の姉・二葉(市川実日子)が
会津藩の有望な家臣・梶原平馬(池内博之)のもとへ嫁ぐことが決まった。一方江戸では
勅命を携えた薩摩が幕府に将軍の上洛を迫る。これを受け幕府は、京都の治安維持に
あたる京都守護職の選任へにわかに着手。政事総裁職松平春嶽は、かねてから優れた
見識を持ち徳川親藩の容保に白羽の矢を持ちかけるが・・