隠居の独り言(1139)

荒れた京都の治安を取り締まるべき役目に容保が「京都守護職」という位を賜るのは
実質的に天皇・公家を煽動しようとしている藩や浪士の監視と武力行使が職務であり
今までの所司代奉行所も管理する重要な任務だった。今までの幕法では幕府以外の
諸藩が京都を通過することだけでも、ご法度だったのに幕府の弱体ぶりは黒船来航後の
開国や反面に攘夷の思想を企てるために長州や薩摩の外様大名が皇室や公家を利用し
幕政に口を挟むようになり、それに伴って浪人志士と称する輩が我がもの顔に京の
街を闊歩して治安は最悪を極めていた。時流は近い将来、幕府体制が綻びるのは確実で
最後の幕府の砦に徳川親藩会津藩が指名されるのは時代の趨勢だったのは否めない。
しかし会津藩士が京都までの引っ越しも大変な作業だった。原則1000人程の藩兵を
動員するとしても気の遠くなるような準備と莫大な旅費が要る。さらに京都の情勢も
地理も人情も言葉も分からない。それでも藩兵たちは黙々と旅の用意の苦労を重ねた。
そして遂に松平容保綾野剛)は京都守護職として藩兵1000人を率いて京都に入った。
その様子は、容保は馬上から目をそばめて京の風景を眺め、会津藩兵の誰もが物語で
聞いて想像した日本の王城の京を初めて見た。藩兵達は京の入り口である三条大橋から
宿舎までの隊列行進は見事なもので歩武をきちんと揃えて私語する者なく騎乗の将も
歩行の士卒も前方を凝視して行軍するさまは京の市民は驚きと感動を持って迎えた。
市中は会津藩到着の噂でもちきりになり市民の安堵の広がりは唄にも歌われたという。
しかし素朴な会津人には長州、薩摩など他藩の権謀術数が渦巻く京を安定させるには、
そんなに甘くなかった。公儀や公家への接近も実直な行動だけでは時勢は動かない。
NHK大河ドラマ「八重の桜」第7回「将軍の首」のストーリは、会津藩京都駐在で
覚馬(西島秀俊)は八重(綾瀬はるか)や尚之助(長谷川博己)と別れ、京へ旅立っていった。
そのころ京は攘夷を唱える不逞浪士による天誅事件が相次ぎ不穏な日々が続いていた。
安寧を祈る孝明天皇(市川染五郎)は、容保をお気に入られて御衣を特別に授けられる。
天子自らが御衣を大名に下賜されることは今まで例無くいかに容保を、お気にいられ
頼りにされたか、容保はひれ伏して泣いたという。