隠居の独り言(1144)

三月の時期になると昔を思い出すのは、かれこれ60年以上も前の上京した頃のこと、
姫路から夜汽車に13時間揺られて東京に出てきたのは15歳の時、昭和でいうと24年。
朝鮮戦争の一年前。大都市への転入抑制解除になった年で上京の夢が叶った少年だった。
姫路から東京まで12時間以上掛かったが、当時の東海道本線は沼津以西が蒸気機関車
以東が電気機関車で姫路からの夜行列車は朝6時ごろ沼津駅に到着し機関車の交換の
時間が一時間近くあって、夜行で疲れた乗客達は一斉にホームに出て、体操をする人、
駅弁を買ってホームで食べている人、何より新鮮な空気が美味しかったのを覚えている。
東京で初めて靴底が触れたのは東京駅だった。それは当たり前だが上野駅新宿駅より
田舎者にとって「東京」と名の付く駅は今でも感慨ひとしおで青雲の志の原点がある。
叔母がホームに迎えに来てくれたが着古した学生服に、父が使い古したリュックサック、
履いていたのはドタ靴で惨めな格好の少年には叔母もきっとうんざりしたことだろう。
落ち着き先は浅草橋だったが高架のホームから遠く眺めれば浅草松屋筑波山が聳え
東京の空が広く見えた。遠望が出来たのは空襲の焼け跡のバラックの家が平地のようで
戦後3年以上が過ぎても住宅復興が追い付かなかったのだろう。駅周辺の青空市場では
活気に満ちていたが浮浪者も大勢いた。そして到着した日から小僧の生活が始まった。
小さい頃から弱虫だった自分が15歳で上京して、よく丁稚小僧が勤まったと今に思う。
逆説めくが家が貧乏だったからで、もし裕福な家に生まれていれば上京しなかったろう。
誰も貧乏は嫌だが土壇場まで追い詰められれば火事場の馬鹿力じゃないが自立出来る。
上京してまず目にしたのは進駐軍兵士で、その姿格好に日本が負けた実感を思い知った。
世相は下山事件三鷹事件松川事件などの暗いニュースが多かったが、ラジオからは
青い山脈、銀座カンカン娘、異国の丘、かえり船、赤いリンゴ等の歌謡曲や、モナリザ
トゥヤング、テネシーワルツ、ビギンザビギンなどのアメリカンソングが流れていた。
仕事をしながら聞いた、とんち教室、冗談音楽、鐘の鳴る丘、二十の扉など懐かしい。
笠置シヅ子藤山一郎、徳川無声、古川ロッパ榎本健一など今の人は知らないだろう。
職人の先輩のなかには戦地から帰還した人も多く戦争の体験談や異国の様々な話題は
どれも半端じゃない別次元の世界で心弾ませながら聞いた世の中は驚きの連続だった。
聞くもの、見るもの、食べるもの、知るもの、諸々の新鮮な体験が少年の心を育んだ。
良くも悪くも小僧時代が大人への脱皮の時期であり青春そのものであったと述懐する。