隠居の独り言(1146)

昭和の少年時代の3月10日は「陸軍記念日」だった。1905年3月10日に日露戦争
奉天会戦で日本軍がロシアに勝利し、奉天(現在の瀋陽)を陥落させて入城した日だ。
日露戦争の最も規模の大きい会戦はこの奉天大会戦で日本軍25万とロシア軍31万が
零下30度近い原野で正面衝突するという人類史上最大の合戦だった。これに辛勝した
日本軍は当然ながら退却を始めたロシア軍の追撃に移った。逃げる敵の追撃というのは
背後から攻撃するために甚大な被害を与えることが出来る。ところが日本軍は大合戦で
砲弾も食料も底をついてロシアの大軍を殲滅できる絶好のチャンスを生かせなかった。
もしここで弾薬が残っていたなら一挙にロシア軍を壊滅し戦争は終わっていただろう。
歴史にイフは禁物だが、ここで日露戦争が終わっていたなら世界は大きく変動していた。
清国は安定し、朝鮮は独立し、外国の干渉も無くロシアもアジアから撤退しただろうし
ロシア革命も不発に終わり王朝も続いて共産主義の台頭も無かっただろうと想像する。
弾薬不足の後遺症は一世紀以上経った今でも日本が近隣からコケにされている原因だ。
先の大戦末期にアメリカ空軍は日本にとどめを刺すように、わざわざ日本人にとって
最も誇りの象徴であった「陸軍記念日」の3月10日を選んで東京大空襲を決行した。
3月9日の昼ごろ一機のアメリカ空軍機が東京の空高く一時間ほど飛行して飛び去った。
戦争末期(1945)の制空権は既にアメリカのもので日本は高射砲も無く、ただ空襲警報の
サイレンだけが空しく鳴るばかりだった。昼ごろに飛び去った飛行機はオトリだった。
昼間に敵機が飛来したから夜の空襲はないものと警戒警報を解除した隙を突くように
3月10日の日付に変わった直後0時に300機以上のB29爆撃機が東京上空に飛来して
焼夷弾が投下された。しかも首都圏の外側から爆撃して市民が逃げられないように計り
其の後に下町の密集地へ高性能焼夷弾を集中爆撃した。人々は火炎から逃れようとして
隅田川や荒川に架かる多くの橋や、燃えないと思われていた鉄筋の学校などに避難した
人も多かった。しかし火災の規模が常識を遥かに超えるものであったために至る所で
巨大な火災旋風が発生し、あらゆる場所に滝のように炎が流れ込み主な通りは軒並み
火の川と化したという。そのため避難をしながら炎に巻かれて焼死して人が多かった。
死者行方不明10万人以上、これは史上最大の虐殺だ!日本全国の殆どの都市への空襲、
とどめは広島・長崎への原爆投下、一般市民を的にした連合軍の戦争犯罪ではないか
!3月10日が来る毎に悔しい歴史を思い、人間の愚行を考えさせられる。