隠居の独り言(1174)

先週、メンバーと練習帰りに両国駅前の食堂に入ったが、食堂といっても中は広く
中央に本物の土俵があって相撲ファンの友人は土俵を食い入るよう眺めていた。
「さすが相撲の本場とあって雰囲気がすばらしい」酒が弾むと大相撲の話になる。
友人の学生時代は栃錦のファンだったそうで「栃若時代は良かったですなぁ・・」
昭和30年代、内掛けや二枚蹴りなど多彩な技能とねばり強さで「マムシ」と恐れられた
栃錦は1954年に第44代横綱に昇進した。179?100?そこそこの小さな体を猛稽古で
鍛え上げた。一方「土俵の鬼」といわれた若乃花も軽量だが強靭な下半身で必殺技、
呼び戻しを武器に58年、第45代横綱に昇進した。以後2人は数々の名勝負をくりひろげ
栃若時代を作り相撲界は最高に栄えた。当時はテレビが出始まりの頃で一般の家は
殆ど無くテレビといえば蕎麦屋か喫茶店だった。貧乏小僧には蕎麦代は無理だったが
テレビの魅力に勝てなかった。近所の蕎麦屋の開いている窓の隙間から見た。当時の
蕎麦屋はテレビ集客で儲かった。とくにプロレス、ボクシング等の格闘技関係の時間は
どこの蕎麦屋も超満員でテレビは神棚みたい高い場所に置かれていた。栃若時代の
印象は勝負よりも栃錦の体はぶつぶつだらけで絆創膏を貼っていたのを覚えている。
最初の頃のテレビはモノクロ画面であってもその人気の強さのおかげで画像の粗悪さ
などあまり気にならなかった。実況を見られる感激はそれだけで狂喜し贔屓の選手が
活躍したり勝ったりすると思わずみんなで拍手喝采したものだ。むしろその不透明な
画面に生々しさとスリリングなものを感じていた気がする。物の無かった時だからこそ
栃若のようなハングリー精神の傑物が出たのだろう。戦後の若者は強いものに憧れて
競争心も激しく出世を夢見た象徴が格闘技でありテレビの魅力だった。豊かな時代に
生まれ育った現代の日本人にはハングリーな気持ちで戦うモンゴル力士に敵わない。
モンゴル力士が言葉の通じない相撲部屋でどれほど苦労を重ねたか察するに余るが
横綱の地位を独占するのも当然だ。日本が豊かになればなるほど第二の栃若は
不世出になり国技の名が泣いている。