隠居の独り言(1219)

島倉千代子さんが亡くなった。享年75歳、あまりに早いこの世の別れ、とても悲しく思う。
実は自分は「お千代さん」のかくれファンだった。お千代さんの歌唱力は言うに及ばず
女らしい優しい容姿と仕草は若き日の憧れの女性だった。小僧の頃、ラジオに流れた
「東京だョおっ母さん」は故郷の母を想い、「逢いたいなァあの人に」は初恋を偲んだ。
帽子を縫製する職人は朝から晩まで一日中ミシンに座っての仕事だが唯一楽しみは
ラジオを聴けることで単一的な縫製労働の慰めにラジオは無くてならない存在だった。
戦後は歌謡曲全盛時代で人々は日々の苦労を歌によって発散していた。リンゴの唄、
かえり船、異国の丘、里の秋、夜のプラットホーム等、懐かしさと思い出はキリがない。
小僧なりたての、昭和20年初期のラジオは朝夕と昼休みだけの放送しかなかったが
年代とともに放送時間も増え内容もドラマ、音楽、娯楽番組などラジオが楽しくなった。
昭和20年代から30年代にかけての大物女性歌手といえば美空ひばりに尽きるが
同年輩生まれの島倉千代子が少し遅れて頭角を表し世間は二人をライバルとみなし
ファンもひばり派とお千代派に分かれていた。ひばりの歌唱力と上手さは天下一品で
ひばりに肩を並べる歌手は二度と現れないだろう。お千代さんは庶民的な歌い方で
優しさと包容力に溢れていた。特に「カラタチ日記」や「りんどう峠」が好きでラジオから
流れると口ずさんだし、虎キチにとり阪神・藤本勝巳との結婚も嬉しいニュースだった。
報道によれば、お千代さんはあまりにも人が良くて世話になった人の保証人になって
何億もの借金でその返済のために身を粉にして働いたことも根が優しすぎたのだろう。
ひばりとの親密な交流もひばりが平成元年52歳の若さで夭折したとき訃報を聞いた
お千代子さんは仕事をキャンセルして駆けつけ3日間ひばりの傍から離れなかった。
それはライバルというより、良き友として良き音楽仲間として超越した大きな寛容さと
素晴らしい謙虚さを持っていたのだろう。若き日にお千代ファンでよかったと述懐する。
今ごろ、あちらでは、ひばりと会って二人が大好きだった鍋焼きうどんを食べながら
「人生いろいろ」だったわねぇと音楽と人生の積もる話に花を咲かせているに違いない。
お千代さんありがとう。  合掌。