隠居の独り言(1260)

先日の某新聞の人生案内を見た。「子育て中の40代主婦。約1年前から夫と家庭内
別居状態です。夫は新婚時は優しかったのですが最近は夫婦げんかすると自室に
こもり無視をします。私は仲直りしようと話しかけ手紙も書きますが許してくれません・」
人生案内の定番だが婚礼の時、恋と結婚生活の違いをもっと冷静に知るべきだった。
結婚して人が変わるというより、この場合、別れるか一生我慢かの二者選択しかない。
「人生は過ぎてゆく (La vie s'en va)」というシャンソンがある。岩谷時子が作詞をして
越路吹雪が歌った。「好きよ、好きよ、きれいな夜ね、あなた、遅かったわね、あなた」
ままならなかった過去の恋と、出逢いのすれ違いを嘆く歌だが、嘆くあまりに、自分を
「助けて」と叫んでももう過去は戻らない。歌の世界だから許されぬ恋も感動を呼ぶが
実際にこの恋が成就するはずがないし無理に成就しようとすれば多くの人を傷つける。
考えれば恋とは身勝手なもので他人の心に思いを寄せることもない。恋は独善であり
誤解であり、欲望そのものだ。そのくせ二人の恋は無限に続くものと錯覚してしまう。
恋に巡り逢えたときの心のときめきも時が過ぎれば二人の日常性の中で掻き消えて
しまうのが普通だ。生活に慣れてくればイビキもかくし、オナラも平気になってしまう。
でも慣れきってしまっている日常生活が本来の人間と思う。生きるとはそういうものだ。
自分も若い時に熱烈な恋をした挙句、振られてしまった。忘れられない青年は人生に
失望し自殺まで考え嘗て二人で旅した所に行こうと汽車に飛び乗った。若気の至りと
いえばそれまでだが、たとえ、その人と恋が成就していても今に思えば自分の人生は
たいして変っていなかったろう。それは与えられた「時」という流れと「運」という定めに
「恋」は一過性の熱病のようなものだからだ。現実に気付けば芝居の物語に過ぎない。
青春の思い出は恋人に振られた涙だが、涙が乾けば気持も乾いてしまったのは恋の
突き当たりまでいかなかったからと思う。啄木の詩の「なみだなみだ不思議なるかな、
それをもて洗えば心おどけたくなりけり」と詠ったが、泣いた後はさっぱりするものだ。
今では恋のできない歳になってしまったが過去を懐かしむより今、自分の生きている
有限の時はかけがえのないものであり人生の終焉まで常に新しいものを見続けたい。
♪Ya no estas mas a mi lado corazon・・・ラテンの名曲「ある恋の物語」に詞をつけた。
「君が愛したリラの花は今日も淋しく咲いていた。二人歩いた思い出の道、君と過ごした
時は還らず・・」若き日の叶わなかった恋も今に歌えば蘇る。恋の不思議なるかな・・