隠居の独り言(1272)

東京は有難いことにあちこちに図書館がある。自分は墨田区の図書館の常連客だが
ここは世間から隔離された別世界で午後のひととき、静かな環境で好きな作家の本を
読むのは、これ以上の至福は無い。自分は小説を書くという超越した才は皆無だが
文章の上手い人は、読者を意識して語れる才能に大きな自信を持っていることだろう。
作品の物語、背景、描写を淀みなく綴れる才は羨ましい限りで人は同じ頭の細胞の数と
言われても信じ難い。文章というのは才人は湧き出る泉のように出るが、凡才はどんな
奇抜な視点があろうと、素敵な物語があろうと、文章力がお粗末だから話にならない。
自分の好きな作家の一人に川口松太郎がいる。とくに川口松太郎が描いた女たちは
今では、どこを探してもいないだろう。「深川の鈴」のお糸、「七つの顔の銀次」のお新、
「櫓太鼓」の花香など、切なくも色っぽい風情と背景は大正・昭和期のものであっても
いつの時代も男に尽くす可憐な女心や、忍耐とか、献身とか、自己犠牲とか、それは
男が求める身勝手な夢かも知れないが男も女も一途な情愛は今では遠い昔になった。
例えば今の女性は片思いができない。できたとしても長続きはしない。男を愛したなら
男も自分を愛するのが当たり前と思っているからで、愛されても愛することができない。
「櫓太鼓」の花香は相撲取りの国港と恋仲になった。でも二人が夜を共にした翌日は
国港は必ず相撲に負けた。今まで勝っていた力士にも簡単に負けた。国港は出世と
女の板挟みに悩んだ。大関になるまでは女を断つと成田山に願を掛けていたからだ。
相撲に勝ちたい。女に逢いたい。花香に白状する。「そんなこといわれたら私だって・・」
女はしくしく泣き出した。出世一筋の相撲取りと、まだ主人持ちの抱えの身の花香は
願を破った恐ろしさと悲しさに泣いて、泣いて、彼が大関になるまで逢うことを止めた。
そして二年が経ち彼は大関になった。二人は泣きながら抱き合った。新場所初日から
三日間、貪るように二人は抱き合った。新大関は見事に三連敗した。それから花香は
柳橋から煙のように消えてしまった。大正ロマンの香る人情話を食い入るように読む。
小説の舞台になった柳橋界隈の今は花街の料亭の一軒もなく昔の面影はまるでない。
現代は「おとなの女」「自立的な女」の名のもとに女性が飛躍的に成長したのも事実だ。
しかし女性特有の美しい物腰、優しい仕草、粋な言葉など薄くなった気がしてならない。
思い違いか?