隠居の独り言(1285)

自分は小中学生を通じ学校を6回かわっている。落ち着いて勉強できるはずがない。
当時の戦争中の混乱があったかもしれないが学校が変わるたびに挨拶をしなければ
ならない転校生にとって辛かったが、事情があったにせよ子供には随分と迷惑な話だ。
大阪生まれで小学校を一度転校したが、5年のとき疎開福島県白河へ引っ越した。
関西から東北への転校は、まず言葉の問題で当時はテレビやラジオの情報源もなく
標準語も地方に行き渡っていなかったから白河で初めて耳にした言葉は訳分からず
子供にはイントネーション程度の生易しさでなく方言の違いにはどうしようもなかった。
さすらいの転校生は当然にいじめを受けた。白河の小学校の先生も意地悪であった。
「おめぇ、どっから、きたんだ?話すのが変わってっからチャンコロか、チョンコだっぺ・」
お前は言葉も知らぬ支那人朝鮮人か。当時の大陸の人への軽蔑の蔑称であった。
中学受験も筆記は100%だったが面接で「タンボのネェシロって知ってか?」の問いに
答えられなかった。苗代のことを後で気づいたが見事に落ちて泣きながら家に帰った。
子供のことだから言葉は慣れて話せるようになってきたが外から来た人に変わらない。
自分は歌が好きだったから歌えば恨みもいじめも少しは気持ちを慰めることができた。
歌にはアクセントもなければイントネーションもない。関西人も東北人も歌えば同じだ。
小学生で「流浪の民」を知っていた。♪・・・いずこ行くか流浪の民・・大人になってから
YMCAでこの歌を歌ったとき涙が出た。白河という土地は冬が寒く、といって雪がなく
吹きすさぶ北風は食べ物もろくにない庶民に容赦なく体ばかりか気持ちまで凍らせる。
コメや魚はたまの配給で賄い、どこの家も鶏を飼っていたが卵が家族の栄養源だった。
鶏も卵を産まなくなると処分して食料とするが絞めて解体するのは家族で自分しかなく
方法は近所の人が教えてくれたが書く気になれない。しかし久しぶりのご馳走だった。
今の小学生からすれば考えられないが人は生きるために必要とあれば何でもできる。
唯一の楽しい思い出は夏になると家の中にも蛍が行き来して蚊帳の中に入れていた。
戦争中の警戒警報が鳴る夜にも消灯して真っ暗な部屋で蛍は人の心を癒してくれた。
あの異常な時代だったけれど、あの時代に少年だったことは幸福だったと思っている。
二つ下の妹と食べ物を分けあったのも、苦しみも痛さも過ぎてしまえば良き思い出だ。
昭和20年の夏はとても暑かった。戦争に負けて泣いたが次のステップが待っていた。