隠居の独り言(1293)

先日、長くお付き合いいただいたご近所の方が亡くなられたのでお葬儀に参列した。
といって、その人を特別に偲んだり人柄や業績を称えたりはしない。近所の世間並の
お付き合いということで何がしかのお香典を包んで黒い洋服で出かけただけのことだ。
齢とともに同年輩の知人が減っていくのは世の常だが、その方は自分と同じ生まれで
昭和一桁の、恥多い時代を共有して語れる相手を失うことの寂しさは何ともいえない。
なにしろ昭和20年前半から30年にかけて小僧をしていた頃は不良に憧れた時代で
悪い仲間達と遊郭で女と遊び街で喧嘩するのも若いエネルギー発散の愉しさだった。
テキヤと称する半端人とも付き合ったが実は人情味溢れ律儀はきちんと備えていた。
そこは完全な大人の世界で、今の若い者の隠れたチマチマした遊びとは全然違った。
亡くなられた方も結構な不良少年だったらしい。いつも硬軟両方の話が尽きなかった。
若い女性はきちんとした嫁入り前の行儀作法を学び、近寄り難い気高さを備えていた。
当然に結婚前に男友達と付き合うなんてとんでもないことで男の神秘な憧れであった。
最近の事件簿の乱れた男女交際は、事柄の根本が忘れられている気がしてならない。
キレイゴトなどという偽善が知的とか良心的という錯覚に気付かない世の中が憂える。
平成のモラルの感覚にない心情的、情緒的な昔話が出来る証人がまたひとり消えた。


このごろは黒色で金ピカの霊柩車が走っているのを街で見かけることが少なくなった。
昔は終の棲家は自宅が多かった。大抵の葬儀は自宅で執り行われたので金ピカの
霊柩車が自宅前から最後のクラクションを鳴らして参列者から火葬場へ去っていった。
以前、親は子供に対し霊柩車を見かけると親指を手の中に入れて握りなさいと諭した。
つまりグーをすることで死神の厄を払うおまじないだった。反面に小僧をしていた頃は
霊柩車を見かけると今日は縁起がいいよと言われた。どっちが正しいか、分からない。
町から霊柩車が消えたのは葬儀場が火葬場等が多くなり自宅が少なくなったからだ。
風潮としても自宅での葬式の難儀さを考えれば葬儀業者に任せしたほうがよいだろう。
亡くなった当人も家族に迷惑を掛けたくないはずだ。病院で亡くなれば緑ナンバー
遺体搬送車が霊場や火葬場に運ぶので、ますます霊柩車の出番が無くなっていく。
厳粛な葬儀で笑ってはいけないが滑稽なのは葬儀後に霊柩車で喪主は遺体とともに
火葬場の敷地内を一回りしている。これは料金に加算されるので葬儀屋の儲けだ。
葬儀屋もビジネス料金もピンキリだが死人は分からない。自分の墓も必要はない。
死ねば魂は千の風になって、或いは花に語りかけ或いは鳥のように大空を駆け巡る。
さて自分の時はどうする?誰にも迷惑かけず葬儀、戒名全て無用、独りで旅立ちたい。