隠居の独り言(1305)

お盆が近いのか、ここ数日、新聞の広告チラシに墓地の案内が何枚か入っている。
最近は墓の概念も変わり先祖代々のお墓も核家族化の影響でお参りする人も途絶え
整地されてしまった墓も多いと聞く。「○○苑」などという墓地が死者の魂の救済より
ビジネスになっているのは実に侘しい限りだ。東京近辺の墓地の値段も半端じゃない。
「坊主丸儲け」の言葉も浮かぶが人が亡くなると戒名だの、お布施など葬儀代と共に
持つべきモノが無いと簡素にあの世に行かせてくれないのが世の仕組みになっている。
あの世でも「地獄の沙汰も金次第」で閻魔様に裁かれるとき、持ち金次第で手加減を
してくださるという。閻魔様は嘘をつく人の舌を抜く魔王だが、袖の下を受け取るとは
閻魔様も地に落ちたものだ。自分のように金無しではどのように裁かれるのだろうか。
千の風になって」という歌が息長くヒットしている。歌の歌詞がとても清々しくていい。
♪私のお墓の前で泣かないでください そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に 千の風になって あの大きな空を吹き渡っています・・素敵な鎮魂歌と思う。
この歌に心打たれた人は多いだろう。歌が大ヒットした要因は、きっとこの歌詞にある。
日本人の宗教観はモノに拘るところが多い。墓、位牌、骨、遺品、仏壇、等々、そこに
死者の霊魂が込められていると感じている。人が「千の風になって」に共感するのなら
遺品や遺骨などどうでもいいと思うが戦後70年も経って未だに海外の戦地へ行って
遺骨を探しに行くのは日本人の拘わりがあるからだろう。今はお墓に対する考え方が
随分変わってきているというが、それでもお盆やお彼岸などには墓参りする人が多い。
羅生門」という本を読むと平安時代の頃は、人が死ぬと死体の「捨て場所」があって
そこに乞食が髪の毛や遺品を盗むシーンがあるが昔の日本人の死生観は今と違う。
確かに散骨をしてモノを残さない人も増えたし、樹木葬で土に帰る観念も出てきたが
それでも樹木というモノが「依り代」になり死者と接点を求めているのが日本人と思う。
さて自分はどうするか。為るしか為らないが辞世は用意してある。「ええねん これで」