隠居の独り言(1314)

朝の食膳の定番は、ご飯のほかに、シラスとネギを混ぜた納豆、海藻関係の味噌汁、
野菜のおしたし、ぬか漬物などが並ぶが毎朝食べられる幸せを思いながら箸を運ぶ。
朝、何気なく食べているものは、昭和一桁生まれにとって戦争末期から戦後にかけて
最も食べ盛りだった飢餓時代には、考えもしなかった垂涎の朝ご飯の有り難みだろう。
当時は芋類もスイトンも贅沢だったし南瓜や茄子などはツルまで食べ野菜というのは
どこにも生える雑草だから今、目の前に並ぶ食物は当時には想像外の高級食になる。
飢餓生活も日々の常套になると、何だっていい、食いものがあればそれだけで充分だ。
真夜中、遠くの農家の畑に野菜や芋を盗みに行った。罪悪感はどこかに忘れていた。
田舎だったので蛇や小鳥を捕らえて食べたし昆虫や蛙も少年の胃袋に収まっていた。
幸いに日本は四季を通じて自然が豊かで草木は生え、海や川にも動物蛋白源となる
生物が生息していた。故郷の瀬戸内海の塩田跡で、貝や小魚を獲るのが日課であり
家族にとって一番の栄養源のご馳走だった。塩田跡への行き帰りには胡瓜や茄子を
盗み喰いし、浜で蛸や海鼠を生きたまま食べた。好きも嫌いも情緒もなく空腹のみが
本能の証でありゲテモノも不衛生なども心になく生きる手段は理屈を遥か超えていた。
一応政府は配給制度で米や魚の支給を定めていたがあれは空手形に過ぎなかった。
一人の検事が配給だけで餓死したというニュースもあったが誰も気に止めなかったし
むしろ何故闇米を買わなかったのか、同情というより彼の生き方の純粋の死を悼んだ。
一日、何度食べたかも記憶にないし、どれほどのカロリー摂取だったかも定かでない。
ある日、近くの農家からさつま芋を頂いたことがあった。家族はさつま芋を貪るように
食べ久しぶりにお腹を満たして床についた。お腹いっぱい食べられる幸せはこんなに
生きる喜びなのか、食べ盛りの少年は心身ともに涙が出るほど満足感に溢れていた。
でも満足感は、その時だけであり明日の食糧の保証はどこにもなかった。貪欲な本能、
食べる手段、人間の生命力、辛さ悲しみを乗り越え身をもって知った数年間であった。
家族一同みんな痩せこけた。食糧が足りず栄養失調だったのだろう。それでも生きた。
あれからウン十年、飽食を通り越してメタボを気にする人は数千万人と云われている。
自慢じゃないが自分はメタボを気にしたことがない。それは少年期の食生活のせいで
胃袋が普通の人より小さくなって胃の分泌も悪く、沢山食べられないし、間食もしない。
いまさら、少年期の食べ盛りに満足に食べられなかったという「恨みつらみ」は無いが
今に思えば食べる感謝も、生きる喜びも、飢餓の経験があったからこそ、心が沁みる。