隠居の独り言(1317)

終戦福島県白河市にいたが少年にとっては日々の暮らしの通過点に過ぎなかった。
少年は小学6年生、12歳の夏だった。1945年の夏は今年と同じように暑い夏だった。
学校の夏休みもなく開墾した芋や南瓜畑の雑草取りを終え、家に帰って玉音放送
母から聞いたが、日本が負けたという事実はにわかに信じ難かったが近所の人々が
騒ぐのを見て、これは本物と目が覚めた。暑さ、ひもじさ、惨めさが同時に我を責めた。
それからのことはよく覚えていない。両親もさぞ苦しかったと思う。終戦から一年過ぎ
姫路の祖母から手紙が来て蝉時雨の降り注ぐ夏の日に父の故郷に帰ることになった。
当時は汽車の切符を手に入れるのも大変なもので旅行の理由から日にち指定までも
申告してようやく家族6人は白河から姫路までの20時間以上を掛けて汽車に乗った。
国に物が無いということは当然に汽車の本数も少なく、車内は当然にすし詰めだった。
母方の祖母は同行したが過酷な旅の疲れか、関西に戻った安心か、程なく亡くなった。
でも優しかった祖母の最期を看取れたことは祖母にとっても家族にとっても大満足だ。
姫路に帰って一年後の夏に、大勢の人並みの中を黒い車がゆっくりと通り過ぎていく
風景を目にした。人の頭越しに黒い車は見えたが乗っている人は確認できなかった。
それでも大勢の人たちが「バンザーイ、バンザーイ」を連呼していたのを覚えている。
みな朝早くからその時を待っていたが通り過ぎる時間があまりに短くあっけなかった。
昭和天皇は、終戦後まもなく全国の被戦災地を訪ね視察と国民への励ましを兼ね、
都道府県全てを行幸された。兵庫県姫路に巡幸されたのは昭和22年のことだった。
「朕と爾等国民との間の紐帯は・・(中略)・・単なる神話と伝説に生じるものにあらず、
架空なる観念に基づくものにあらず・・」戦後における、所謂、天皇の「人間宣言」だが、
日本の象徴の人として国民は受け取った。そのとき少年の胸中は今更言われなくも
天皇は親しみある日本人のおひとりであることはとっくに知っていた。戦争が終わって
連合軍の中でもソ連天皇制廃止を主張したが、その他の国の殆どが天皇制維持を
支持した。とくに連合軍司令長官マッカーサー天皇を畏敬し日本の国体の基礎で
あるとの考えを持っていた。日本の戦後の繁栄はマッカーサーに負うところ多いと思う。
あれから70年、日本は神戸淡路地震東日本大震災など未曾有の天災に遭ったが
天皇は被災地に直接出向かれ、お見舞いと励ましに将来の希望の礎になられている。
皇室を持つ日本人に生まれて良かったとつくづく思う。終戦から69年が流れた。