隠居の独り言(1385)

老境の最中になると誕生日や金婚式など、みなさまから目出度いと祝ってくださるが
正直言って人生の関所を思い出させられ、嬉しい半面に寂しくなるのも本音といえる。
ニュースで、愛川欽也が80歳で、加瀬邦彦が74歳で亡くなったという報道が流れる。
一世を風靡した同年輩の彼らの訃報を聞き自分も死は身近な現実として実感が迫る。
つい最近まで自分が死んだとき誰もいない未知の世界に踏み込むものと思っていた。
しかし、この歳になると死はけっして孤独ではない。大勢の友人知人が既にあの世で
待っていてくれる。やぁやぁ久しぶり、待ってたぜ、昔のように、飲んで食べて歌おうよ。
だから来世はけっして淋しいところでなく自分にとって実に賑やかな風景になっている。
来世の友だちもやはり音楽仲間がいい。といって自分には音楽は好きなだけであって
詳しいわけでない。童謡で始まり、クラシック、ポピュラー、歌謡曲シャンソン、ラテン。
未熟な音楽好きは結局何も実らなかったが人生の糧として程良い旨みを残してくれた。
最近はシンフォニーに凝っている。クラシックは奥深いが、シンフォニーは人生物語だ。
シンフォニーは大抵四楽章で激しさ、緩やかさ、メヌエット、激しさのストーリーがある。
一楽章の激しさは青春時代を謳い、二楽章の穏やかさは結婚と子育ての時期だろう。
三楽章のメヌエットは人生の方向性を感じさせ、四楽章の激しさは最後の決着であり
人生の集大成だ。今、チャイコフスキー交響曲5番を聞きながら文章を書いている。
この曲の第四楽章を何度聞いても鳥肌が立つのは、チャイコフスキー自身が悩める
人生を音楽に込め彼の死の観念を表した作品だからだ。自分も既に四楽章の最中で
もうすぐ指揮者がフィナーレの部分をオーケストラメンバーに棒を振って伝えるだろう。
地球の一日に朝があって夜があるように、人間の一生にも誕生があって終末がある。
人の一生が成功だったかどうかということは自分の場合、体験の数が成功の尺度だ。
とりあえず今の健康は病気の経験があったから有り難味に満喫できる。お金の面でも
今のゆとりは貧乏の経験があったからこそ嬉しい。人に愛されることは素晴らしいが
失恋経験があったから人を愛せる。子や孫に頼られることも嫌われることも人間的な
生活の一環だ。それが時の経過とともに貴重な感情も経験も薄れていくのが悲しい。
老化による体力の衰え、機能の減少は避けがたいが自分はいつか自然に、これ以上
生きることに疲れ、もう生きていなくていい。充分に生きたと感じれば、そっと消えたい。
人生最後の贅沢は納得して、あの世に行ければ最高だ。