隠居の独り言(1400)

ブログを始めて11年が経つ。「隠居シリーズ」も気づけば1400回目の節目になった。
費やした時間は計算できないが、ここまで続いたのだから生涯学習のつもりでいたい。
ブログは淡々と日常の生活だけを書いていてはつまらない。長続きをさせるためには
世の中の好奇心と時間とそれに自腹も必要だ。パーソナルヒストリーは、仕事のこと、
政治経済のこと、家族のこと、趣味のこと、健康のこと、そして八十数年の回顧録など、
ブロブテーマを手前勝手に隠居シリーズにしてみたが実際の隠居の身では綴れない。
現在、歳82、身長168、体重55、今の過不足ない人生の歩みを文章に書き留めたい。
といって何もかも曝け出せるものでなく、誰にも秘めた部分があって、それは地獄で
閻魔さまに報告しかない。今は老いた肌の皺のなかにひっそりと隠れているのがいい。
自分史を綴るブログとは所詮、過ぎし日の自慢と叶えられなかった夢の戯画化だろう。
あれもしたいこれもしたい煩悩は山々だが叶えられないのが今生の定め。貧乏歴あり、
学歴コンプレックスあり、失業歴あり、失恋歴あり、病気歴あり、ままならならぬ人生だ。
それでも時は流れる。望んだ道でなくても、夢が叶えられなくても運は誰のせいでない。
人生は努力10%運90%という。どんな努力をしても運の付いている奴には敵わない。
歳を重ねれば体力も気力も衰え人を恋することも叶わなくなると人は言うがそれは嘘。
年齢を重なればなるほど人が恋しくなり寂しさは譬えようがないほど人情に飢えてくる。
体力は仕方ないが、せめてもの慰めは恋の歌を歌うこと、そして綴る文章も艶が出る。
恋の歌を歌う。それも失恋の歌がいい。過去は戻らないけれど誰にも害を及ぼさない。
大抵の人は多くの失恋を重ね、最後にやっと山の神に落ち着くものだが未練がましく
この歳になりかつての恋のイフを思い青春を振り返るこの情けなさが男のサガだろう。
自分は何のために生まれてきたのだろう。でもそれを詮索するほどに人間は偉くない。
命が数百年もあれば大抵が解明できるのだが、神は百年足らずの命にリセットされた。
人生は奇跡と奇跡の合作だ。生まれたこと自体、無数の精子卵子の結合で選ばれ
奇跡が始まり、また無数の人生の岐路があっても結局唯一の道しか残されていない。
自分と山の神との出会いも神のいたずらか、お節介だったか、時間が川の如く流れる。
江戸時代流行った端唄の一節に「柳、やなぎで世を面白う 受けて流すが命のくすり、
梅にしたがい 桜になびく その日その日の風次第 嘘も誠も義理もなし」と詠ったが、
人生とはこんなもの、遠い昔に騙したことも騙されたことも時の流れが解決してくれる。
晩年になってブログを書けただけでも幸せだ。ブログは「自分の人生の決算書」であり
黒字か赤字かは、あの世で閻魔さまが決めてくれる。