隠居の独り言(1401)

法事のため故郷・姫路に帰った。母の13回忌、父の27回忌、祖母の70回忌に当る。
故郷に帰るのは5年ぶりだが法事のような用事でもないと親戚一同集まらないのは
どこも同じで、冠婚葬祭の葬の字が最後の付き合いだろう。久しぶりの親族の再会は
歳を重ねれば重ねるごとにそれぞれ体と心の変化に戸惑うことの多いのは仕方ない。
ここ数年の間に兄弟の死や病気など重なったのも気持ちの弾めない要素は否めない。
10年くらい前は甥や姪の結婚の話題、5年くらい前は彼らの子供の話題、でも今では
老後の話や病気の話題の多いのに時の経過の諸行無常の鐘の音を聞く思いがする。
母は93歳まで存命したが50代でスモン病という薬害に犯され人生の後半の殆どを
ベッド生活に強いられた。スモン病の最初は原因不明の風土病とされ、発症者が多く
巷では感染する、遺伝すると怖がられ治療法もないままスモン患者は次々亡くなった。
我が家も例外でなく当時は兄弟が20代だったので結婚にも影響すると母の病気は
絶対的な口外無用だった。後にキノホルムという胃腸薬を飲んだのが原因と判明し、
製造元の武田薬品や病院・医師との裁判沙汰になったが母の病気が治るわけでなく
未だ完全な治療薬なく悔やんでも悔やみきれない母の人生の悲運の怒りは忘れない。
父は母の病気のため家事一切と裁判所との交渉に忙しかったが27年前の1月の朝、
突然の急性心不全で旅立った。父は神戸大学に検体を申し込み葬儀無用とのことで
父の遺志を尊重した。検体とは医学生の遺体解剖の研究に身体で提供することだが
死んでなお自らの人生観を達成した父は尊敬に値する。父は2年後に白骨となって
戻ったが、家族のみで細やかに密葬を済ませた。嬉しいことに、父にとっての曾孫が
医学生になって、今年は学校で解剖実習があり、亡き父もきっと喜んでいることだろう。
子の立場から見れば両親は幸福という二文字から遥か遠い暮らしをしたと感じている。
父母それぞれそれなりの家庭環境に育ち、知識たしなみなどきちんとした人だったが
昭和の改革で母の実家は没落し、父は赤紙での長い兵役で蓄えた資産も減っていく。
家族は貧乏の味わいを充分に知らされた。時代は戦争の影が色濃く映り都市からの
脱出で大阪→福島に移って家族は決して平穏と言えない生活だったがこれも時の運。
父母に育てられた期間は15年だったけれど、中身の濃い歳月だったと今に述懐する。
法事というのは世代交代の一つの行事で、自分も残り少ない命とあれば近い将来に
位牌の名に記される。自分には娘二人なので苗字が途絶え、ご先祖様にお詫びして
父母の法事もこれで最後としたい。自分も葬儀無用!子や孫が思い出だすだけでいい。