隠居の独り言(1411)

夏が来れば思い出す。其の参。昭和16年12月の真珠湾攻撃直後の日本軍は実に
破竹の快進撃だった。開戦直後2日目の12月10日マレー沖にいたイギリスが誇る
太平洋艦隊の旗艦プリンス・オブ・ウエールズとレパルスの2艦を日本空軍の爆撃で
沈没させイギリスの出鼻をくじき日本軍はイギリス領マレー半島を2ヶ月半で落とした。
攻略の司令長官は山下奉文だったが敵の降伏時にイギリス側のパーシバル長官に
「イエスかノーか」と一喝した逸話は当時は喝采されたが、あれは傲慢としか思えない。
12/25日のクリスマスに香港を占領し、明けて1/2日にマニラ、2/14にシンガポール
3/1日にジャカルタ、4/15日にラングーン・・小学3年生だった少年はこれらの日誌を
克明に綴って学校から表彰されたが、軍国少年の絶頂の気分は僅か数ヵ月で終わる。
その頃、アメリカは日本の軍部や政府の交換する機密文書の暗号文を解読していた。
真珠湾攻撃も既に解読されていたが、アメリカ・ルーズベルト大統領は事前発表せず
日本の「騙し討ち」としてアメリカ国民の戦争鼓舞に利用したことを今は知られている。
史上稀に見る快進撃を続けた日本軍だったが昭和17年6/5日のミッドウェー海戦
空母4隻を失う大損害を受けた頃から戦況が不利となり、徐々に日本は後退を重ね、
遂に昭和18年6/19日にアメリカ海軍のマリアナ諸島の侵攻を日本軍が迎撃したが
その海戦で空母艦隊に壊滅的損害を受け、太平洋の制海権を完全に奪われてしまう。
その後、日米両軍は何回かの海戦もあったがことごとく負け終戦時は無に等しかった。
日本軍は東南アジアの戦闘区域を拡大して戦力も分散したがアメリカ軍は集中的に
島沿いにペリリュー、サイパン硫黄島と陥落させ、日本本土空襲の基地を確保した。
彼我の国力差とともに戦術が大きく違っていたのも戦争の行方を決定的なものにした。
そもそも海軍の連合艦隊というものは、巨砲の持つ戦艦を旗艦として巡洋艦駆逐艦
等々数十隻の艦がセットで指揮官のもと規律よく一匹の猛獣のように戦うのが艦隊だ。
だが対米決戦用の連合艦隊はワンセットしかなく(アメリカ艦隊は太平洋2、大西洋1)
しかも船を動かす燃料が不足で石油の浪費を避けなければならないのに、南太平洋の
ミッドウェーにまで大艦隊が行く必要があったのか。ちなみに日露戦争もワンセットで
日本の近海、或いは港で、ロシア・バルチック艦隊を待ち受け日本海海戦で完勝した。
そんな良いお手本があったのにも拘らず、なぜ日本近海で、待ち伏せしなかったのか。
制海権も制空権も完全にアメリカ側が手中に収めれば後は赤子の手を捻るに等しい。
日本は負けるべきして負け、アメリカは勝つべきして勝った。世界戦争史の笑い種だ。
軍国少年東条英機とともに海軍の山本五十六を「軍神」と崇めていた。それなのに
山本五十六真珠湾を企画した指揮官であり、ミッドウェー海戦の司令長官であった。
夢から醒め、愚将ばかりのリーダーたちに洗脳させられた悪夢は自分ながら嫌になる。