隠居の独り言(1414)

夏が来れば思い出す。其の六。戦争が終わって、もう空襲の恐怖は無くなったけれど、
生活は厳しさを増していた。父の勤めていた硫黄の鉱山は弾薬の材料で軍需産業
戦争の終結とともに会社は解散し、当然に父は失業の憂き目で収入源は閉ざされた。
学校では先生が今までの国威高揚の教育とは逆に民主主義についての話だったが
もうどうでもよかった。腹を満たすことが先決で学校よりも農家の手伝いが優先だった。
悔しかったのは中学試験に落ちたことで筆記は自信があったが面接で稲の種籾から
苗代までの工程順を聞かれたが知らなかったので答えられず当然、明日の掲示板に
自分の名はなかった。涙がとめどなく溢れそのまま帰宅することができなく夜を待って
家に帰った。その夜は寒い北風が吹き、お腹も空いていたが泣いた心は空虚だった。
もう白河には用がなくなった。というより白河から去りたかった。自分はやはり関西人、
東北に馴染めなかった部分が多い。家族は父の実家のある姫路に帰ることになった。
戦後の混乱の中、汽車の切符の購入もままならず先に母、祖母、子供が帰郷したが
祖母は関西に帰った安心感と栄養失調と疲れのため、三日後に脳溢血で亡くなった。
優しかった祖母は二日目の夜に突然倒れ一晩中うなされ汗をかき青鼻汁が止まらず
医師や家族の看病虚しく帰らぬ人になった。医師の指示で母と少年は祖母の遺体の
始末をして清めたが「おくりびと」の仕事は、人生で二度とありない貴重な体験だった。
今のように葬儀場がない時代、家族の一員が亡くなると残された者が清めたことだろう。
しきたりで母は火葬場に行けなかったが、少年は遺体を積んだ大八車を引き、後ろに
妹が祖母の名を叫んで泣きながら着いてきた。少年も泣きたかったが必死にこらえた。
姫路の街も戦災の焼け野原は、未だ残っていたがバラックが建ち始まり、街の模様も
徐々に明るくなってくる。商店街には「りんごの歌」など流れ活気が出てきた感がした。
人間にとって、生きることは食べることだった。実家は多少の援助はしてくれたけれど
日々の暮らしは家族一同で賄わなければならず恥も外聞もなく働いた。最初は家に
あるモノを農家に持って食べ物と物々交換をしたけれど、家にモノがなくなると少年は
近所から御用聞きをして交換物を大八車に積み遠くの農家に足を運び駄賃を貰った。
当時も今も役人は冷たいが法律上は買い出しが御法度なので見つかると没収される。
しかし子供は見逃してくれたので近所での御用聞きは重宝された。少年はこの頃から
商売を経験で覚えた。食べるためには自分が何かをしなければならない責任感に持ち
長男の立場を知った思いがした。食料だけでなく、煙草の葉を買ってきて、庭で干して
手巻きした煙草は飛ぶように売れた。それは専売違反だがそんなこと言っていられない。
少年の学校の不登校は日常だったが、それでも卒業式の答辞を読む栄誉を頂いた。
担任の先生は家に来られて早稲田高校を推薦して下さったが、家の貧乏避けがたく
東京の帽子職人に丁稚奉公に行くことにした。夜行列車に乗って東京に旅立つとき、
母は見送りに来なかった。母の気持ちを察すると今も胸が熱くなる。