隠居の独り言(1416)

夏が来れば思い出す。其の八。歴史とは民族、宗教、国家、そして個人それぞれが
必死になって生き抜いてきた大河の結果であり、戦争も平和も、その中から生まれる。
したがって結果の是非善悪を軽々しく言うべきでないし、まして国際裁判は茶番劇だ。
戦後、連合軍はドイツに対してニュールンベルグ裁判、日本に対して極東軍事裁判
戦勝国が敗戦国の責任者を裁く不公正なもので、それはリンチという報復でしかない。
もし裁判をするのなら戦争に拘らなかった中立国が戦争責任を追及するのが公正だ。
当時アメリカで最も尊敬された議員であるロバート・タフトはニュールンベルグ裁判
「正義の実現でなく復讐心の表現でありドイツ戦犯の処刑はアメリカの歴史の汚点で
同じ過ちが日本で繰り返されないよう切に祈る」と言ったが、東京裁判で繰り返された。
インドのパール判事も「敗戦者を殺戮することは、昔と違い現代の規範を抹殺する」と
東京裁判の非人道的行為を糾弾している。あのマッカーサーさえ「裁判は間違い」と
後述している。人同士の喧嘩、国家の戦争は喧嘩両成敗であり善悪は歴史が決める。
東京裁判の焦点は起訴状での「平和に対する罪」「人道に対する罪」の二条に尽きる。
「被告全員は昭和3年から20年までの期間、共同謀議の目的は、東アジア、太平洋、
インド洋地域を、日本が支配することのために数々の不法な戦争をした」というもので
日本がそれらの悪事をことごとく企んで実行した、というのが判決の要旨となっている。
「人道に対する罪」は、そもそも戦争が非人道的であり、日本だけ非人道的というなら
米軍の都市空襲、原爆投下、沖縄の火炎放射器など、無辜の民100万を瞬時に殺し、
ソ連満洲樺太・千島の暴虐、シベリア抑留の連合軍の非人道な仕業は何なのか。
自分たちの卑劣な暴虐を棚に上げ、戦争の責任と人道を裁く権利がどこにあるのか。
戦争よる彼我の大量殺戮は東京裁判できちんと説明できたのか。現代になっても続く、
人種差別、異民族浄化、人が生存するかぎり、戦争意識があるかぎり、終わりがない。
「勝てば官軍、負ければ賊軍」の言葉は理由の如何を問わず勝った側の理屈だけで
結末される。昔、関ヶ原の合戦で負け側の石田三成が京の河原で斬首されたときの
事情と変わらない。勝てば恩賞を沢山預かり負ければ領地を奪われ石もて追われる。
大戦で日本も強い犠牲を強いられ塗炭の苦しみを味わったのは紛れもない事実だが
敗者の側だから責任は誰も取らない。公平に見れば原爆の責任も、シベリア抑留の
補償も請求できるはずだが、負けるという現実は補償どころか、賠償金を要求される。
泣きをみたのは日本であり責任を問うなら日本人自身で責任の所在をはっきりしたい。
日本人の中にも東京裁判の正当化をする人が多いが偏向史観は教育の中に流れる。
全ては歴史という大河の中で世界の諸国民、諸民族が生存的競争で無数の個人の
悲劇を生みつつ興亡を繰り返していく。人類が現世に存在する限り無限に続くことは
避けられない。だからこそ負けた悔しさをバネにして強くならなければ生きていけない。
強いことが正義の理は世界の常識で、高い授業料を払った体験を、今こそ生かしたい。