隠居の独り言(1444)

文藝春秋は発刊ごとに読んでいるが、文春の長く続くコーナーに、同級生交歓がある。
各界で活躍する人たちが共の学び舎の同級生が集まって記念写真を撮るコーナーで
やはり有名大学を卒業した人達の顔ぶれは錚々たるもので、無学の自分には程遠く
今更のごとく、いわゆる学歴コンプレックスに見舞われる。こんな輝ける写真を見れば
大学に行けなかった自分は、齢八十を過ぎてなお後を引いている気がしないでもない。
時代が悪かったのだろうが、田舎の学校の中卒で同級生も同窓会も連絡が途絶えて
付き合いは、親戚、仕事上の友、近所の友、趣味の友で、所謂、学び舎の友はいない。
進学への執着は小僧時代に大学へ帽子を売りに行ったとき、偶然に中学当時の友が
帽子を買い当時流行っていた帽子に靴墨を塗り始めたとき気持ちが暴発してしまった。
心込めて丁寧に仕上げた学生帽をこともなげに足で踏みつけ靴墨を塗る彼を思わず
殴りつけた。世間の不条理、貧富、学歴の格差、若い血が狂った。後は覚えていない。
子供の進学時、親の学歴欄もあり、官庁関連の仕事も会社履歴で個人情報も必要で
国が定める資格試験も大抵は高校卒が条件なのは知識力の最低の基準なのだろう。
こればかりは誰を恨むわけでなく、神の定めた運命の人生に甘んじなくてはならない。
世間には立派な人がたくさんいる。学問好きで長じて政治、経済、文化成功者になり、
国や事業を牛耳り、みんなの尊敬を受け、中にはノーベル賞を頂く果報学者も現れる。
成功したあとも同級生交歓して、かつて青春時代を天国のように再構築し雑誌を彩る。
現代は情報化時代、これらの情報を知るに及んで、自分の子供が将来の成功のため
有名大学を目指して子も受験戦争に明け暮れ親も後押しするのは当然の成り行きだ。
江戸時代の身分制度は遠い昔になったが現代は学歴や学閥が身分制度の代わりを
為している。早い話、東大法科を卒業し、上級国家試験をパスして高級官僚になれば
スピードの速い出世と栄えある人生が約束される。そんな特別な人物でなくも有名な
大学を出れば就職から縁談まで将来はラヴィアンローズに近くなる。でも大半の人は
それに適合しなかった者、もしくは参加できなかった人であり、この世の底力を支える。
農業も漁業も職人も商人もいなくて世の中は成り立たない。世の中というのは賢者が
決めるのでなく、仕事や生活の中から知恵が生まれ価値ある社会が生まれることを
忘れてはならない。我が家の孫どもも来春の進学受験に向け今が最も大切な時期で
本人にとっても親にとっても神経がピリピリの日々が続いている。受験は一発勝負!
受験により人生の流れが大きく変わるのも運命の悪戯だろう。でも受験用の勉強とは
パズルのような記憶力の偏狭なもので人間性から遠いところにいるものと思えばいい。
後は運のみ。孫が将来、文春の同級生交歓に載れるよう天神さまにお願いに行く。