隠居の独り言(1453)

この頃は、どこの家でも何冊ものアルバムがあって、家族の歴史が記録されている。
その他パソコンやスマホに保管されどの時代の写真も即見られるようになっている。
文明の発達は素晴らしい。自分が子供の頃はカメラは貴重品で持っている家なんて
滅多になかった。例え家にあったとしてもフィルムや現像代が高価だったから気軽に
撮れなかったろう。だから自分の写真も生後数ヶ月経ってから写真屋で撮ったものと、
それから5年くらい飛んで家族の記念写真しかない。その後戦争だったから子供期の
写真は殆んど無いといっていい。父や母の若い頃の写真も数枚しかないのも寂しい。
子供の頃の記憶の頼りは写真だけなのに姿格好の空白期間があまりにも長すぎて
人生の走馬灯の映像は消えている。だから子供の頃を偲ぶには記憶だけしかない。
思い出というのは何もかもが懐かしく美しいものでない。美しい思い出と同じく
過酷な経験も同じ数だけ残っている。転校生で苛められ家にも言えず一人で泣いた
少年も何時しらず記憶から遠ざかるが時々蘇るのは脳細胞の片隅に残っているからだろう。
先週、逝去した同世代の野坂昭如も戦後の飢餓体験で義妹を餓死させたが、自分も
思い出の最大は飢餓時代に尽きる。雑草を食べたことも、虫や蛙を丸呑みしたことも、
生きた蛇を焼いて食べたことも、鶏の首を絞め調理したことも、思えば残酷なことだが
食べるという本能は人間の最たる欲望であり空腹に口に入るものは何でもよかった。
日本の自然や四季の有り難さは野や山に実があり海や川に生き物がたくさんあった。
近所には豚や牛を飼っているところもあり殺処分に厩舎の子供たちも手伝っていたし
牛馬の配合や出産の場面も身近なものだった。子供も手伝えば小遣いに預かれた。
今と違って衛生も悪かっただろうが、考えれば自分の今の丈夫は当時の細菌からの
免疫機能が今の人よりある気がする。飢餓の時代は花粉症やアレルギーなど聞いた
ことがなかったし糖尿病は贅沢病とも言われた。現代の子供たちの食べている鶏や
豚や牛の食卓に上がるまでの過程は大人も含めて大抵は知らない。今の子供たちは
生きたトカゲやヘビを見るとキャーと奇声をあげて気持ち悪がる。でもヘビもトカゲも
地球で暮らしている我々と同世代を生きる生物仲間だ。まして動植物を食べなければ
人間は生きられないのだから生物を大切にしなければ罰が当たる。まして食べ物の
好き嫌いは宗教的な理由は別にして人間の傲慢さが出ている気がしないでもないが
偏食,食べ残し,肥満など、昔には考えられなかった食の冒涜には天罰が下るだろう。
戦争の時代、飢餓の時代、貧乏の時代、失恋の時代、自分史からは断捨離したい。
思うに、苦しい時代の写真もアルバムも記録もないのは天の配合だろう。