隠居の独り言(1464)

前項の続きのようだが、またも我子の虐待事件があった。3歳になる自分の子なのに
熱湯をかけ、あげく殺してしまった母親を何と言ってよいか分からない。殺されたのは
他人の子ではない。10ヶ月間をかけお腹を痛めて産んだ自分の子なのだ。それなら
最初から子を作らなければいい。でも作る気持ちがなかったのに出来ちゃったという
ことなのだろう。親になる気はなかったけれどSexしたら出来ちゃったということになる。
父親でない男を引っ張り込んで邪魔になった自分の子を殺める行動は、本能的にも
生物としての人間でない。普通、生物は自然に任せ発情し子を作り、そして子育てに
命を賭して大人にまで成長させる。その母性愛の本能が女の優しさの根源といえる。
発情的行為が本能なら、子を慈しむことも本能のはず、でも人間は自由意思を持って
自身の行為の何たるかを自覚している。生物の発情的行為は生殖本能のためだが、
人間には快楽のためだけの行為に神は本能を与えてしまった。昔は男のため快楽の
発散場所があったが、平成のモラルは遊郭なども無くなり、女も恋を謳歌する時代だ。
今や情報化時代、ネットを通じ様々な人知り合える。人と知り合うのは人生の大きな
楽しみであり成長する貴重な糧になるだろう。しかし中には怪しげなサイトも多数ある。
出会い系サイトなるものはいい例で、知らない人と簡単に知り合えるのがいいらしい。
知らない人と愚にもつかない話と無体なSexで金銭や情欲を得る何と貧しい考えか。
そこまでして人を必要とするのだろうか。結婚して子を育てる責任という概念自体が、
いつの日か自然界から人間は離れた。でも人は子供を虐待した親を指して「あいつは
人間じゃない」というけれど、人間だから本能を離れて悪の所行に走ってしまう生物だ。
それは自然界では絶対にありえない子への虐待だからで、考えれば慈しみの本能を
忘れてしまった人間を育てた我々こそが虐待の責任を問われるだろう。一人の人間を
肉体的、精神的に一人前の社会人として育て上げることは、ある意味、この世で最も
難しい仕事なのかもしれない。対し、この世で最も易しい仕事は発情的行為であって
何の努力など要らない。子は親を選べない。3歳の子は虐待されるため世に生まれた。
こんなことがあっていいのだろうか。責任は親だけでなく育てた世間の反省が必要だ。
世間は子供は天の授かりものという心を忘れている。少子高齢化を叫ばれ久しいが
子供を社会の損得の秤で量るのはおかしい。子を産み育てる母情を今一度考えたい。