隠居の独り言(1524)

八月になれば思い出す。着の身着のまま帰った姫路だったが、早急に窮した事情は
食べることで、父の実家に頼んでもどこでも困っている状態では援助など期待できず、
自活しなければならなかった。買い出しの物々交換も最初は多少衣類もあったけれど
微々たるもので母や自分も働き、或いは農家の手伝いもして日々の糧を得ていたが
食べられるものなら選ばず、アクの無い雑草、昆虫、小魚に至るまで腹の足しにした。
一応、コメの配給制度としてはあったが、それは名ばかりのもので皆無に等しかった。
米や芋の買い出しは、近所から頼まれた分を含め、数里先の友人の親戚の農家まで
友人と荷車を引き、まる一日を掛け衣類や家具を積んで食料と交換し、サヤを稼いだ。
或る時は、タバコの葉を買いに岡山県和気まで汽車に乗ったが途中で警察の検査で
多くの人が没収されたが子供は見逃してくれた。当時は日本中が闇の商品や闇米を
めぐって生死の騒ぎをしていたといっていい。子供心に響いた空しい出来事であった。
タバコの葉は家で乾燥させ紙を巻いて業者に売ったが、これも法律では闇商品だった。
家ではヒヨコを買って鶏にして卵を産ませ日々の栄養源にしたが、産まなくなった鶏は
「かしわ」になる運命で、食べ残しの骨、羽、首は犬の餌となり一分の無駄も無かった。
猫もいたが、食料を盗む鼠を退治してくれるためで、犬も猫も家畜として飼われていた。
姫路は瀬戸内海に面し、いずれ日鉄用地になる塩田跡地には貝その他の海産物が
豊富に生息し、家族の食べ物に大いに寄与したことは有難かった。今は高級の蛤も
砂浜の海でいっぱい獲れ、飯蛸も海鼠も鰻も干潮の時は手づかみで籠一杯になった。
近所の農家からは野菜をいただいた。食糧難も都会では味わえない田舎の暮らしで
それなりに生活できたことは有難かったと述懐する。当時の自分は高等小学生だが
何より空しかったには、きちんとした教科書がなくガリ版刷りの破れそうな粗末な紙で
字が判明できない綴り書だった。2年卒業のはずが新生度になり中3までとなったが
戦後の混乱期の端境期で、中卒といっても実際の学校の教育は無かったに等しい。
現実に小僧になった時、新聞の読めない職人もいた。これも戦争の後遺症だろう。