隠居の独り言(1557)

歳末は人生を回顧する時だが、戦後に福島の疎開先から父の故郷の姫路に帰って
2年を過ごした。今は故郷を姫路としているが実際は大阪で生まれ育った12年間が
本当の生まれ故郷といえる。引っ越しは尋常小学高等部の時期だったが、折からの
教育改革で義務教育6,3制に変更され、小学高等2年が新制中学3年に延長された。
当然に勉強や教科も変わるはずだったが戦後のモノ不足で教科書も学校一冊だけで
先生と、生徒も手伝って粗末な紙にガリ版刷りをして教科書らしきものを作成していた。
字もよく読めないので先生の教壇からの講義と生徒たちの雑談が多かった気がする。
登校する生徒も半分くらいで学校で習った記憶が今も思い出せない。当時の親たちも
学校へ行くなら農業の手伝いをしたほうが将来役立つぐらいの軽い気持ちだったろう。
昭和一桁生まれで今も新聞が読めない方がいるのは時のせいとしか言いようがない。
しかし自分に最大の幸福は川崎先生の出会いだったと回顧する。川崎先生は近くの
酒屋の息子で年齢は二十歳そこそこ代用教員の身分で、どうせ俺は酒屋を継ぐからと
自嘲気味に生徒に話していた。川崎先生は薄い教科書を見るよりも小説を読んだ
ほうがいいよと漱石、鴎外、藤村、啄木などの著作本を自分にも貸して解説まで
して下さったことだった。恩師の先見の明は、読書が今も好きなのは川崎先生の
お蔭だったと今も感謝している。初恋して恋文の一節も影響は言うまでもない。
父が病弱で登校も不充分だったが、食料品買い出しや塩田跡で貝や小魚獲りで
口の足しにした。貧乏も飢餓も新制中学在籍僅か一年少々だったが充実していた。
学校卒業する時、川崎先生は「横山、お前が答辞を読みなさい」と言ってくださった。
僅か一年の15歳の青春が過ぎた。これから東京の厳しい現実は知る由も無かった。
不来方のお城の跡の草に寝て空に吸われし十五の心」 石川啄木