小僧日誌 その一

harimaya2018-02-16

近くの小学校の音楽室から卒業式に歌われる歌が聞こえる♪仰げば尊し我が師の恩・・もうこの学校に来ない。別れる涙は生涯唯一の哀しきくもまた希望に溢れた歌だけど、ボクに照らし合わせれば、もう70年前に涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら歌っていた。この年齢になって帰り来ぬ青春の頁が蘇るのは、そろそろ終焉も迫ってきた感じがしてならない。昭和24年に故郷姫路から夜汽車に13時間揺られて最初に東京でワラジを脱いだのは浅草橋駅近くの台東区向柳原の叔母の家だったが、当時は戦後も間もなく、景色は家もまばらでバラックも多く、駅から浅草松屋や上野の山が遠望できる風景が残っていた。浅草橋界隈は圧倒的に問屋が多く、どの店も小僧が何人かいてそれを番頭が取り仕切る仕組みになっていた。勤めた帽子製造の店も小僧が12人ほど番頭3人の規模だった。丁稚小僧とは仕事の職を教えてもらうため住み込みで修行することで、殆どは義務教育を終えたばかりの(当時は高等小学校卒)で、小僧の身は食事、衣類は保証されたが、部屋は共同で当時は6畳の間に4人、仕事、家事は指導され日々鍛錬した。休日は月一、給料は旦那様からの金一封(500円)を頂いた。最初は殆ど雑用で朝の掃除に始まり夜の片付けまで先輩たちに仕事を教わり、口答えは許されず、先輩の身支度、食器の洗い、布団の上げ下げ、洗濯、着物の繕いなど上下関係はあったけれど先輩は優しかった。小僧時代の頃のことを思い浮かぶままに書いていこうと思っています。