小僧日誌 その二

仕事上の小僧の苦労はさておき、上京して初めて体験したこと、嬉しかったこと数えきれない。田舎も極端な食糧難の時代、涙が出る程嬉しかったのは、三食白いご飯が食べられたこと、ご飯の味さえ忘れていた。何も要らない。丼一杯でも一汁一菜でもこれ以上の幸せはなかった。水道がガスも初めて体験したのも驚きでした。田舎では井戸だったし、薪を燃やしてご飯も風呂も焚きました。それがスイッチ一つで水も火も出るなんて少年の心は文明開化のようでした。田舎では口に出来なかったパン、蕎麦、バナナ、チョコ、洋菓子など数えきれない初物でした。幼い頃から越中褌がパンツに履き替えて、頼りなかった股間も落ち着いた初めての体験も一つ。戦後になって多くの引揚者に職人もいて仕事をしながら彼らの外地での思い出話も楽しかったなぁ・戦後間もなくの頃のラジオはまだ高級品で、所有する家も少なく、時間も朝昼夜の一部限られた時間帯しか放送されませんでした。「母さんの歌」の歌詞にも「せめてラジオを聴かせたい」があります。通いの女工さんは7時までですが、女工さんたちは夜の人気番組(君の名は、S盤アワー、漫才の番組等)を聞くため残業し、みんなで夕飯を後にして一緒にラジオに聞き入った。「君の名は」の時間は女湯が空くという話もあったし、マチコ巻きが流行り、女工さんたちは手編みで作った襟巻の多くはスフの糸だった。S盤アワーからクロスビーやキングコールが流れ、交差点では進駐軍が交通整理し、物心両面でアメリカナイズされていく世相があった。食事が終われば即食器と箸を洗い、所定の場所に置いてまた仕事をした。一日の工程が淀まないため、食後の休憩は考えられなかった。小僧は空いている時間は無かったけれど、それでも集荷や配達の時は良かった。自転車の後ろにリヤカーを付け商品の積み込みの配達だが、外の空気の美味さは生きる証しに思えてきた。小僧たちは地方出身者ばかりで、郷土意識の連帯感のような親しみが生れて仲良く仕事が出来た。耳学問にしても日本全国旅しているような話は日本を俯瞰しているようで楽しかった。