隠居の独り言 62

夏が来れば思い出す。其の十一。当時の職人は朝鮮人も多く彼らは戦前に朝鮮半島から渡ってきて職を身に付けるため帽子職人で働いた人が多い。戦前の朝鮮は日本の一部で人々は日本人であり、傍にいても違和感が無かったけれど、昭和24年の集団窃盗犯逮捕に絡んで起こった在日による枝川事件の在日朝鮮人デモで大半の職人は辞めていった。当然に小僧の数人も辞めたがボクも折角親しくなれたのに民族感情というものは生易しいものでないと小僧は勉強した。先輩S君にお返ししたいこといっぱいあるけど彼は居ない。小僧の勉強は学校と違って世間そのものであり良きも悪きも体験と実績がものいう。帽子作りの技術の習得もさりながら掃除、洗濯、料理その他、家事一般をするのも仕事の内で当時は洗濯機も、掃除機も、炊飯器も、レンジも無く全てが手作業で、特に冬の寒い日など冷たい水を使うのが厳しい。米を研ぐ時も、洗濯する時も、掃除の雑巾がけも手が冷えた。冬の朝は起きるとまず練炭起しで、まず火鉢で炭に火をつけ炭から練炭に火を移す。練炭火鉢は夕方まで火を絶やさず、それが唯一の冬の暖房器具で、管理は小僧の役目だった。通勤していた女工さんが数人いたが、家にはラジオが無く「とんち教室」や「君の名は」を聞くために残業して働いた。当時は家にラジオが無い家庭も多く、戦争で焼け出された戦後の混乱から立ち直る過程の時代だったので仕方ない。働くことがいかに大事か、お金を得るのがいかに大事か・・大店勤めなので職人の確保や、販売の方も先輩から教わり朝から晩まで休みなく休日も月一で、自分の衣服繕いした。小僧が入社して一年目に会社の古い部分を建て替えをした。会社の建て替え工事で面白かったのはヨイトマケだった。家を建てるとき最初に行うのは土地造成の地固めだが整地をして溝を掘り、その溝の中に丸石を埋め地固めし、コンクリートを流すまでの作業がいわゆるヨイトマケだが、移動式の櫓を組みその最上部から何本かの綱を付けた太い丸太を人夫たちが櫓に輪を組んで、丸石をめがけてドスン、ドスンと何度も地面に落とす仕事は鳶のカシラの合図で一斉にするが、面白いのはカシラの掛け声の唄で歌詞は七七調のもので「おっとちゃんとおっかちゃんが、夜の夜中に子作りはげんで、エンヤコーラ!」ドスン!とこんな調子で色っぽい内容のセリフを臨機応変に唄い、人夫も肝っ玉かあさんも多く卑猥なセリフも面白く唱和し楽しげに汗を流した。野次馬も一緒に楽しんだヨイトマケ。現代はパワーショベルやブルドーザーの機械の進歩で過去の遺物となってしまったが過去の遺産として惜しい。後に三輪明弘がヨイトマケを作曲し歌ったが彼の母上はヨイトマケをして明弘氏を育てられたとか・・赤子を背負い、小さい子連れの人夫の女性もいたが、昔も女は強かった。そしてヨイトマケの昭和の大衆文化も消えた。