小僧一人旅(1)

もうこの部屋に戻ることはないと少し感傷ぎみだったけれど明日と言う日が人生の
節目と思うと胸が熱くなった。外は秋の霧雨に濡れて気温も下がり寒い夜だった。
会社を辞めるとき社長さんは「円満退社」の通知を同業者宛に出してくださった。
それは信用書きのようなもので、これから独り立ちする小僧にとって、社長からの
これ以上のプレゼントはない。給料、退職金12万円とともに押し戴いて、嬉しくて
会社での最後の夜は眠れなかった。故郷の両親へ独立出来た喜びを手紙にしたため
僅かばかりの衣類や日用品をまとめて出立の準備と同僚たちへの挨拶を終えて床に
入ったが喜びの反面、なぜか涙が出て独立の希望と不安のハザマを彷徨っていた。
昭和35年11月15日の朝、社長始め同僚に今までの小僧へのご好意を謝し小さな
荷物を自転車の後ろに積んで会社をあとにした。同僚の一人が拍手をしてくれたが
振り返って顔を見られるのも恥ずかしく前を向いて一目散に自転車のペダルを踏んだ。
新しく借りた所は鳥越一丁目の路地裏のいわゆる裏だなと呼ばれる二階建て二軒長屋の
間口二間奥行き二間半(別にトイレ台所共用)の一室が小僧一人旅の出発点だった。