夏の終わりに(4)

1946年の姫路の夏も暑い日が続いていた。八月の焼くような荒々しい熱気は
長旅で疲れ果てた祖母の体には無情にも容赦なく刃を突きつけるようだった。
奈良生まれの70歳の祖母は関西に帰ってホットしたのか着いた翌日倒れた。
突然に意識不明になり全身が赤く鼻から青汁が出て発作的に声を張り上げて
一昼夜で息を引き取った。「おばぁちゃん、おばぁちゃん」の皆の声も空しく
家族を置いて逝った。老いても美しくきれいな弁天さまのような祖母だった。
医師の診断の後、母と私と二人で祖母の遺体の始末をしたが、それはとても
言葉では言い尽くせない。洗面器の水で体を拭き汚物の処理をして医師から
貰ったアルコールで清め脱脂綿で鼻や口を塞ぎ、棺に納めるには夜通しの
作業だったが、今までの祖母とのいろいろな思い出が蘇って涙が出そうに
なったが、堪えるのに懸命にひとつひとつをこなした。翌朝、医師に借りた
荷車に棺を乗せて二里ほどの先の火葬場に運んだが、後ろから妹が泣き泣き
付いてきたが同じ気持ちを抑えながら無言で暑い道のりに荷車を引いていた。
火葬を待つ間、今までの事が走馬灯のように頭の中を巡ったが不思議と涙は
出なかった。当時私は13歳だったが戸籍では一人の戸主だった。その意識が
今回の事も戦後の混乱期にも火事場泥棒的な馬鹿力を出せたような気がする。
今でこそ人が亡くなると全て病院や葬儀屋任せだが、当時は残された家族が
なにもかも執り行い人生の終止符を見届けるのは当然の行為だが尊厳死とは
そのようなものだと思う。今にして思えば母の苦労がとても哀れだった。
密葬の家族だけの淋しいものだったが祖母は喜んでくれたと今も信じている。