隠居の独り言(327)

関が原の戦い(1600)年後に酒井重忠は川越1万石から上野前橋城3万3千石に
加増され城の改修を行い近世城郭へと変貌させた。祖も関が原の功を認められ
80石に出世してお目見えの役にも任ぜられ家来の数人も雇い入れたらしい。
酒井3代目の忠利は将軍家光の側近となり幕藩の中で頭角をあらわしていく。
寛延2年(1749)には姫路藩に移封となり15万石にまで加増されて入城するが
祖はそれに行を共にしたと思われる。姫路城は戦国時代に池田輝政が建てたが
江戸時代になり本多忠政が継ぎ、子の忠刻に家康の孫の千姫が嫁いで西の丸が
完成して現在の威容が整うが忠刻が病で廃藩となり後は城主が3度替わったが
1749年に酒井忠恭が二千数百名の藩臣と共に姫路城に移り、その後は安泰で
幕政の時代が終わる明治まで存続した。入城した当時の祖の覚蔵は剣術指南を
仰せ付けられ150石で召抱えられて大名町に200坪の広い屋敷を与えられて
それから6代に亘り為弥の明治まで姫路藩士としての務めをしたことになる。
幕末になって酒井家は幕府方に付き戊辰戦争の時に姫路藩会津藩や長岡藩と
共に賊軍とされた。明治に入っても姫路は山陽路の中心都市なのに置県の時は
県庁の所在地ではなく当時の貧しい漁村の神戸に指定される。それは納めた
税金の全てが神戸の振興と発展に使われる事で市民は悔し涙にくれたという。
明治以降の官職採用でも薩長土肥等の官軍の家臣とは雲泥の差で賊軍の家臣は
差別を受けた。勝てば官軍の言葉はこの時に生まれたがそれは今も変わらない。
明治4年廃藩置県版籍奉還により藩主の酒井忠邦は江戸に下り主従関係は
ここで途絶える。為弥の子の宇作は辞したあと江戸で銀細工を取得して帰郷し
その技を生かし玩具駒の製作をして姫路市西二階町に玩具人形問屋を営んだ。
宇作は3男5女に恵まれたが長男は台湾で警察署長まで昇進したが乱で戦死、
次男は東京で繊維会社を興し成功したがその後事情で廃業、三男は人形問屋を
継いで現在に至る。因みに自分は三男の孫にあたる。ルーツ探しは昔にあった
系図を基にしたが士族であったことも役立ち歴史と照らし合わせて書いてみた。
後は自分の思い入れを重ねたもので違っていたら先祖に詫びたい。