隠居の独り言(456)

今夜は元禄十五年(1702) 12月14日の吉良邸討ち入りから305年目の日に当たるが
自分が吉良家と同じ町内の両国に住んでいる以上は吉良上野介の様々な事情も汲んで
素直に赤穂浪士の味方にはなれない。だいたい浪士達が夜の夜中に無防備の吉良邸に
一方的に奇襲を掛けるなんて、あまりではないか。浪士の一人、原惣右衛門によれば
「敵対して勝負仕り候なるものは三、四人、残りの者どもは通り合わせに討捨て」と
言っているが、当夜に邸にいた40人程の人達の殆どが殺傷された。世間では浪士達の
家族や恋人たちの事を可哀想だ、とする話が圧倒的だがそれは片手落ちと言うものだ。
吉良家の家臣の家族や恋人たちが哀れだと擁護する話も本も無いとは腑に落ちないし
たまたま主人が悪かっただけで斬られて死んで、妻や子たちはどれほど泣いたことか。
上野介の養子も元は米沢上杉藩の若君だが、むざむざ親父が斬られたと咎められて
信濃の諏訪に幽閉されてノイローゼになり3年後には牢死するが弱冠19歳だった。
後々の世まで誰も彼らに同情しないし、本当に可哀想なのは吉良の人達ではないか。
史実そのものは浅野家が改易となった事件が基だが浄瑠璃作家が仮名手本忠臣蔵
書いて大阪で上演されたのが大ヒットして創作が重ねられ、人形浄瑠璃や歌舞伎に
そして映画、TV,オペラ、新劇、バレー等の格好の素材となって今に至っている。
赤穂浪士の奇襲作戦を美化するあまり、日本人のDNAとなって昭和になってから
第二次世界大戦真珠湾の奇襲攻撃の愚を繰り返す。たかが忠臣蔵、されど忠臣蔵
日本人の武士道の美意識も両刃の刃のように思う。