隠居の独り言(527)

江戸時代の各大名家では殿様の継嗣問題を巡って「お家騒動」が絶えなかったが
将軍・徳川家でも例外では無かった。病弱で実子が無い将軍家定(堺雅人)の
後継者を巡る対立は徳川御三家紀州藩の慶福(松田翔太)か、水戸藩慶喜
平岳大)の二人だが紀州慶福を推す井伊直弼中村梅雀)と水戸慶喜を推す
堀田正睦辰巳琢郎)・島津斉彬高橋英樹)との熾烈な争いは決着が着かない。
慶福も慶喜もそれぞれが英傑・人望・年恰好の三条件を備えた人物だが派閥の
対立は抜きがたく裏面では血で血を洗う抗争が生まれた。後の「安政の大獄」も
その一環ともいえる。争いごとは卑劣を極めヤクザの抗争と大して変わらない。
そこに安政2年(1855)に起きた大地震は江戸市中には壊滅的な被害が出て幕府の
混乱も著しく、篤姫宮崎あおい)との婚儀も延期されることになってしまう。
婚礼の日も定まらぬままに姫の二十歳を目前に仕える幾島(松坂慶子)も焦りを
覚えるが、このような予期せぬ試練こそ将来の苦難に備えた自分の鍛錬になると、
前向きにとらえる篤姫の姿に救われる思いがする。人生にくじけそうになっても
諦めず這い上がろうとするひたむきな心根が表現される篤姫はとても感動的だ。
明けて安政3年に入ると近衛家との交渉が再開され、近衛忠熙春風亭小朝)と
4月に父娘の結定式が行なわれ忠熙の正室がいないことから仮母には老女・村岡
(星由里子)を定めたほか、篤姫の老女には亀岡(稲森いずみ)、花乃井、岩瀬の
三名が島津家に入って篤姫に公家の娘としての行儀作法を教えることが決まり、
そして7月に幕府より婚儀の日程が正式に通知された。こうして姫の江戸入り後
3年目にして島津斉彬篤姫は遂に宿願を果たすことになる。