隠居の独り言(614)

子供の頃に見た「勝海舟西郷隆盛の会見」の絵画は今でも鮮明に蘇る。
幕末史に残る偉大な江戸無血開城という平和的解決は様々な変遷があって
出来上がっていったが、東進を敢行する新政府軍は明治元年3月15日を
もって江戸城総攻撃の日取りとして決めていた。参謀の西郷(小澤征悦)や
大久保(原田泰造)らは総攻撃を成し、徳川慶喜平岳大)を死罪に処す事を
強硬に主張し、慶喜の死をもって幕末の動乱に終止符を打つ考えでもあった。
片や帯刀(瑛太)、岩倉(片岡鶴太郎)、桂小五郎らは慶喜の助命を主張する
寛大論者で徳川家の存続を朝廷に奏上していた。一方の幕府側は徹底抗戦の
構えを崩さない小栗忠順らと徹底恭順を主張する勝海舟北大路欣也)らと
意見が分かれていたが慶喜は勝の主張に同意して陸軍総裁に任命し事実上の
全権を任せられた。総攻撃直前の13日に江戸高輪薩摩藩邸に勝は西郷を訪ね
無血開城の談判と天璋院宮崎あおい)と静寛院(堀北真希)の保護を求め、
翌14日には慶喜を水戸に隠居して謹慎させる内容の改正を約し、それ以外は
西郷の要求を幕府側が全面的に受ける事で妥協し江戸の街は戦乱から救われた。
その一ヶ月前に西郷はイギリスのパークス公使と会い慶喜の処遇でパークスは
「どの国の法律でも恭順し降伏する者に更なる攻撃を加える事はありえない。
まして徳川氏は天下統治の政権運営を300年も続けてきた立派な業績がある。
もし徳川にこれ以上攻撃を続けるならイギリスは新政府を敵に回すだろう」と
手厳しい非難を浴びせイギリスが示す徳川への寛大さを西郷は深く受け止めた。
勝との会談で幕府側にある程度の妥協をしたのはその素地があったのだろうか。
NHK大河ドラマ篤姫」は江戸城・大奥から見た明治初年頃の顛末記だが
天璋院のもとにかつての老女幾島(松坂慶子)が訪れ、西郷に宛てた手紙を
天璋院に書いてもらい書状を持って西郷を説得しに自らが向かうと告げるが、
その時点では西郷の翻意は見受けられない。