隠居の独り言(703)

大戦中の昭和18年の春のある日、大阪の町は空襲警報のサイレンが鳴った。
アメリカ空軍の一機が大阪を偵察するために上空を飛んでいったが、爆弾は
落とさなくても大阪市民は恐怖に慄いた。高射砲が何発か空に花火のように
炸裂して小さな雲が出来たが遥か上空を悠々と飛ぶ敵機にはかすりもしない。
小学校4年生の頃の出来事に大阪のような大都会にいるのは危ないと家族は
父の勤める硫黄鉱山会社の採掘場のある福島県白河に疎開することになった。
その年の12月大阪を追われるように汽車に揺られること一昼夜、家族5人が
白河に着いたとき雪が舞っていた。雪と寒さに心が震えたことだけ覚えている。
硫黄は鉄砲弾の原料で会社は軍にどれだけ貢献したのかは知るよしもないが
会社の世話で町のはずれの小さな一軒屋を借りることになった。家主は遠くに
暮らしていたが家屋は相当に古く雨漏りもしたし窓や戸など開け閉めのたびに
軋んで嫌な音がした。歪んだ戸からのすきま風は冬の寒さをまともに感じたが
誰も口に出して言わず、それぞれが胸の中で淋しい思いをしているようだった。
今に思えば惨めなものだが、それほどに情けなく貧しいもと思わなかったのは
当時は日本全体が貧乏で板切れ一枚の外には雪の舞う家に住んでいる人も多く
まだ小学生だった自分にとって都会暮らしより自然に触れられる地方のほうが
身体を思いっきり動かせて楽しかった。関西育ちに冬の寒さは身にこたえたが
庭に杏の木があって春になると庭一面が桃色に染まって季節の替りが嬉しかった。
大阪は水道だったがここは井戸で子供の口に水の美味しさを初めて体験できた。
疎開や空襲の苦労ともに、仕掛け網で捕らえた雀や、卵の産まなくなった鶏を
残酷に調理した小学生が厭わず出来たのも時代背景がそこにあった。現代では
味わえない経験も、つい半世紀前頃までは日本のどこにもあった風景といえる。
2009年もちょうど半ばにさしかかって子供の頃のひとこまを思い出した。