隠居の独り言(923)

趣味はラテンギター弾き語りだが年齢と共にますます深く嵌る。ラテンの歌は
リズミカルのものは太陽のように明るくパステルカラーのように派手で思わず
体が動き出すリズムの極致だが、恋の歌となると全てを忘れ恋に身を焦がす。
でも大半が失恋の歌で、とくに男が女に振られた泣き節の多いのもラテンらしい。
ベサメムーチョは「キスして、キスして、今夜の貴女が僕の最後かも知れない」
アマポーラは「美しいアマポーラそんなにつれなくしないで僕を愛しておくれ」
エストレリータは「お星様、あの人の愛が無ければ僕は生きていけないのです」
ラテンを歌う愉しみの神髄は尽くせど尽くせど情の無い女に惚れてしまった如き
因果なマゾヒズムにあると思う。どんなに誠意精魂を込めても一向に意に介さぬ
暖簾に腕押し、糠に釘の果てしない、つれなさを心情に秘めて歌うのがラテンで
といって現実の極楽を欲しているのではない。恋を成就すれば劇は終わりであり
未完だからこそ夢を託する歌声がある。眠れば夢に遊び覚めては世知辛い世間に
嘆息を繰り返し一瞬の儚さを求めるのが歌心で、訴える切なさがラテンの原点で
無償の愛を求める。ラテンの歌は青春そのものだが青春とは取り返しのつかない
悔恨であり遠く過ぎ去っていく幻の衣を掴もうとすればするほど心をゆり動かす。
それはオペラのアリアもシャンソンカンツォーネも日本の歌謡曲などあらゆる
ジャンルの音楽に共通の感情の力ではないか・・演奏会のプログラムに出身校や
海外留学の経歴が書かれてあるが芸には無関係だ。芸の熟練がテクニックであり
人生の哀楽の体験が芸のメンタルと思う。駅前の広場等で、ときどき辻音楽師が
即興的に古びた楽器で体の芯から発散して演奏をしているがこれが本来の音楽と
感じてしまう。たかが音楽、されどラテンだが・・