隠居の独り言(1117)

1941年12月8日早朝、日本全国津々浦々のNHKラジオからビックニュースが流れた。
「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営、陸海軍本部、
12月8日午前6時発表。帝国陸海軍は今8日未明、西太平洋上においてアメリカ軍、
イギリス軍と戦闘状態に入れり」聞いて遂に来たか!頭のてっぺんから足の爪先までの
軍国少年は心から感動し憎き鬼畜米英を完膚なきまでに打ちのめせると血がたぎった。
なにより意気軒昂で目的意識が明確であり雑念のひとかけらない純粋そのものだった。
一刻も早く戦場に出て国の楯になりたかった。今に思えば無垢な少年の心がいじらしい。
緒戦の日本軍の勢いは凄まじいものだった。小学3年生だった軍国少年の自作戦記には
12月8日ハワイ海戦で敵艦多数沈没、12月23日マレー沖でイギリス戦艦2隻を撃沈、
明けて1月2日マニラ占領、2月15日シンガポール占領、3月5日ジャカルタ占領、
3月8日ラングーン陥落・・日本軍は僅か数ヶ月で東南アジア地域の殆どを占拠した。
昭和17年の夏休みの宿題で戦記物語を綴った作文は大阪市長から表彰状をいただいた。
でも一年後から戦況は我に利あらず、聖戦完遂、一億玉砕と世間は世迷言を叫んだが
家族は空襲を恐れて大阪から福島県白河へ逃げるように満員列車に揺られて疎開した。
連合軍の圧倒的な軍事力で僅か4年足らずで日本国土は火の海になり遂に両手を上げ
1945年8月15日正午に昭和天皇玉音放送がラジオのザーザー雑音の合間に聞こえた。
「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、万世のために太平を開かんと欲す」負けた!
少年は泣いた。とめどなく泣いた。泣くのは男でないと父に躾されたがそれでも泣いた。
日米戦争の勝敗を分けたのは、結局は持てる国と持たざる国との懐の深浅度合の違いで
国民生活のレベルが天と地の差は毎日ビフテキを食べていた米国と栄養失調の日本は
大人と赤子の違いであって勝てるわけがなかった。でもいくら阿呆な軍部でも最初から
負けると分かっていた愚かな戦争を始めたのかその謎は今も解けない。1945年の夏に
皇太子(現天皇)が疎開されていた日光に昭和天皇が出された手紙の概要が残っている。
「手紙をありがとう。(中略)敗因について一言いわしてくれ。我が国人が、あまりに
皇国を信じすぎて米英を侮ったことである。我が軍人は精神に重きを置きすぎて科学を
忘れた事である。(中略)進むを知って退くことを知らなかったからです。心と身体を
大切に勉強しなさい。父より」陛下のご尤もな言葉の中に痛恨と反省が込められている。
戦争を思い出す毎に敗戦の日の8月15日より緒戦の12月8日の方が心に留まるのは
純粋無垢な少年の心と日本人としての誇りが今なお根付いているからだろう。