隠居の独り言(1316)

昭和一桁生まれの人間には八月の盆の日は昔を回顧するときであるかも知れない。
昭和15年(1940)4月、自分は大阪西成区岸里小学校に入学した。その年の記憶で
しっかり覚えているのは「皇紀紀元2600年」の数々の行事で学校の催しも、街には
花電車が走り国を挙げてお祝いムードだった。歌まで作られてみんなで歌ったものだ。
♪金鵄輝く日本の 栄ある光身にうけて いまこそ祝え この朝 紀元は二千六百年 
あぁ一億の胸はなる・・・しかし「紀元2600年」は第二次世界大戦の始まる前年だった。
世の中は、何となく軍靴の音が聞こえてきそうな雰囲気の緊張感を少年は感じていた。
新聞の見出しもカタカナ文字は禁止され、都市の名前も伯林・ベルリン、羅馬・ローマ、
巴里パリ、維納・ウイーン、紐育・ニューヨーク、桑港・サンフランシスコ、等になったが
何となく読めた小学一年生だった。女性のパーマも禁止になり服装もモンペになった。
時は軍事色が濃くなる一方で本来ならこの年に東京オリンピックが開催されるはずが
中止になってしまったことは仕方ないだろう。国連を脱退して、国家総動員例を公布し
外国語教育禁止の情勢ではオリンピックもあったものじゃない。マスメディアも軍部と
一緒になって国民を鼓舞していたから今に思えばマスメディアも一蓮托生の罪がある。
当時の少年は軍人が夢であり特に予科練の「七つボタンに桜の錨」の制服に憧れた。
そして少年は戦争の現実は知らなくても全員が「お国ため」に死ぬ覚悟はできていた。
次の年昭和16年12月8日真珠湾攻撃を口火に遂に米英と太平洋戦争が始まった。
緒戦からの連戦連勝の大本営発表のニュースに少年は狂喜し日々、新聞を見入った。
確かに昭和17年頃までは東南アジアの殆どを日本軍は連勝して占領した。2月には
シンガポールを「昭南島」と名称を改めひとつの拠点とした。でも戦勝の気分の満喫も
それまでで昭和18年4月には東京初空襲があった。戦勝の浮かれた気分も萎えた。
そして珊瑚海海戦を機に日本軍は衰え次にフィリピン、サイパンと敗色濃くなっていく。
少年たちに竹槍の訓練が始まった。これは「一億国民総武装」の方針で、一億火の玉、
鬼畜米英、出てこいニミッツマッカーサー、を合言葉に竹槍で一矢報いる作戦だった。
しかし戦果は我に利あらず、遂に沖縄戦、各都市空襲、ソ連参戦、トドメは原爆投下・
これ以上、書くこともない。終戦の夏は本当に暑かった。戦後すぐに連合軍司令長官
マッカーサーは東京厚木飛行場にパイプを咥え飛行機から降りたが、まもなく新聞に
東京赤坂のアメリカ大使館を昭和天皇が訪問された写真が掲載された。見て唖然とした。
大きな体のマッカーサーの兵服姿と、小さな体の天皇のきちんとした礼服姿を見た瞬間、
勝利者と敗北者の否応なく見せつけられた。戦争は負けたのだ。これではっきりした。