隠居の独り言(1412)

夏が来れば思い出す。其の四。昭和18年(1943)、日本の敗色がますます濃くなって
都会に住む人たちは空襲の危険から逃れるために地方に疎開が始まった。我が家も
世間に漏れず父が硫黄の炭鉱の会社に勤めていた関係で福島県の白河に疎開した。
汽車で疎開する人が多く大混雑の家族一同の旅は大阪→白河まで丸一日を掛けた。
でもそんな中でも良い思い出は初めて見る富士山と、着いた白河で初めて見た雪と
旅館で初めて食べた熊の肉のスキヤキだった。「遠くへ来たもんや」と感慨にひたった。
温暖な大阪に比べ、白河の冬は寒く、夏は暑かった。借りた家の庭に杏の木が植わり
春には美しいピンクの花が咲き、秋には実がなって美味しかった。親戚も知人もなく
寂しく暮らしていた家族にとって杏は心の拠り所だった。転校の小学4年の少年には
当然に同級生からのイジメが待っていた。「おめぇ、どっから来たんだ?日本人けぇ」
「おぃの言葉、わかっか?」当時は情報少なく関西弁しか話せない少年は外国人だった。
昭和初期は、まだラジオも少ない頃で標準語も東北地方にあまり普及していなかった。
他所者は、何かに付けてイチャモンつけられ軽蔑され邪魔者にされ、あげく殴られた。
これも一つの儀式のようなものだろう。彼らに少年は異邦人に写っていたに違いない。
それでも子供の順応性早く、少年の関西弁は時を置かず東北弁の訛りに変っていた。
少年は大阪の学校で教わった学習は、白河よりも進んでいて同級生の少年を見る目も
違ってきた。友達も徐々に増え勉強を教える替わりに自然相手にした遊びを教わった。
例えば悪ガキたちはヨシキリ(小鳥)を獲った。ヨシキリは墓場の灯篭の中に巣があり
夜中に寺の墓に忍び込み卵を獲って丸呑みし、親鳥は「鳥屋」に売り小遣いを分けた。
悪ガキは蛇も捉える。蛇の穴は二箇所あって、片方を煙で燻すと蛇が出てきて捕まえ
「蛇屋」に売った。その後の蛇の運命は、皮は財布に生血は精力剤で飲まれたという。
家で鶏を飼っていたが卵を産まなくなると近くの人に教わり少年が捌いて解体したが
鶏を締める残酷さも田舎の子には茶飯事で、戦時中の食糧難だからこそ少年は出来た。
その他諸々、都会育ちの少年には何もかも驚きと新鮮の連続で、田舎の自然と風習を
肌で直接感じた体験は、今も財産として残る。当時の白河は美しい情景がいっぱいで
今頃の季節、悪ガキたちと近くの阿武隈川で泳いで遊び、魚とりに夢中になっていた。
夜には、蛙の合唱、蛍の乱舞、月の明り、星の輝き、戦争という厳しい事情の中にも
得がたい経験をもらって今に思えば戦時の疎開のマイナス面より楽しい思い出が蘇る。
戦後になって白河は人口が増え、町から市に昇格されたが街の様相も大きく変わった。
何十年かぶりで町を訪れた。初恋の人に会う気分だったけれどそこに「昔」はなかった。
戦争とか平和とかは人間社会の出来事であり自然界に関係がない。そして人間の勝手で
自然を破壊するのは人間の傲慢としか言い様がない。自然の報復がなければいいが・・