隠居の独り言(1415)

夏が来れば思い出す。其の七。東京へ出てきて、丁稚小僧になったのは15歳のとき。
昭和でいうと24年。東京大空襲で丸焼けになった東京下町の復興はまだ完全でなく
勤め先の浅草橋から「浅草松屋」のビルが見えていた。当時の世相は戦後の混乱が
未だ残って、帝銀事件下山事件三鷹事件松川事件、等々の重大犯罪が多発し
世の中は安定していなかった。自然界もキティ台風やデラ台風による被害が大きく、
夏はヒデリに苦しんだ年だった。町を歩けば自分と同じ年格好の戦争孤児の少年が
靴磨きで進駐軍の靴を磨き、外地帰りの兵隊がハーモニカを吹き、銭をせびっていた。
巷には、赤線地帯、ヒロポンカストロ誌、パンパン、DDT,ストリップ、見るもの聞くもの、
15歳の少年には刺激が強すぎた。今の人が聞いても言葉も意味も分からないだろう。
小僧の生活については前にブログに書いたので省くが、小僧には給料も休祭日もなく
一日中働き詰めの丁稚の生活がよく出来たと思う。逆説めくが家が貧しかったからで
小僧仲間も全員が田舎の貧しい農家出身だった。世間は民主主義の時代になったが、
それは公の事。店の中では旧態依然のしきたりが厳然として特に上下関係が厳しい。
それでも世の中が変わると、何もが初めてのもの見たこともないものが次々と現れて
少年にはあれよ、あれよで、実に面白い時代が来たものと上京の甲斐あったと思った。
月一度の休日はおにぎり二つを懐に自転車で東京中を駆け巡るのが楽しみだったが
どんな苦労でもどんな貧乏でも世の移り様に若い目を向ければ希望の青春といえる。
当時は東京も信号機は殆どなかったが、通りは進駐軍ジープやトラックが行き交い
大きな交差点では、進駐軍兵士が台の上に立って手信号をして車の誘導をしていた。
初めて見るジープも軍用車も、乗る進駐軍のカッコ良さも田舎出の少年の目に輝いた。
ラジオからシナトラやキングコールの歌が流れ、アカ抜けした音楽に少年は感動した。
意味も分からず英語の歌を口ずさむのが時代のバスに乗っている気分がした。一方、
人はみんなよく働いていた。貧しい日本が高度成長に乗る基礎固めの時期だったろう。
上京して一年後1950年6/25日南北朝鮮を分かつ北緯38度線で突如、轟音がした。
北朝鮮が韓国に向け砲撃を開始して戦車部隊を先頭に北朝鮮軍が38度線を突破し
いわゆる朝鮮戦争が始まった。直ちに米軍の兵站司令部が設けられ、直接の調達で
大量の物資が買い付けられその中に繊維の軍服、帽子の注文があり景気が沸いた。
奉公先の仕事も例外なく忙殺された。戦争特需好景気は業界の特別料理だったろう。
繊維業界は織り機をガチャンと一回織れば一万円儲かり「ガチャマン景気」と呼ばれ、
携わる業界全てが「糸ヘン景気」で顔がほころんだ。しかし、財産を残した人の一方で
別のものに手を出して破産したり、遊びで没落した人もいて社会の勉強をさせられた。
今に思えば帽子産業はあの頃が最も栄えた時期だったと思う。特需が終わった後は
時代なのか一般の人も学生も帽子を被らなくなり業界は坂道を徐々に下り今に至る。
自分には学歴はないけれど、社会の裏表と浮き沈みを見た履歴の多さの自負がある。