隠居の独り言(1523)

八月になれば思い出す。終戦の時は福島県白河市に住んでいたが戦争が終わって
来年には家主が満州から引き上げるということで家を明け渡せねばならず半年間の
余裕を頂き六畳一間に家族6人が雑魚寝を強いられた。父の故郷、姫路に帰るまで
半年間の、ひもじさ悲しさは家族共有のものだが、生きる執念を13歳の少年は知った。
早く家を出て行けと石もて追われるように白河を去ったが姫路に帰る時、父は会社の
残務処理があり、一緒でなかったが自分が長男で家族を連れ、満員列車を乗り継ぎ
何時間もかけたのも苦にならず八月の暑い太陽が容赦なく汽車の窓を照りつけたが
希望という名の列車の気がした。でも老いた祖母は過酷な汽車旅は無理だったようで
姫路に着いて数日後に疲れ果て亡くなった。着いて間もなく右も左も知らない土地で
突然のアクシデントに茫然となったが、とりあえず、実家の方に相談し警察にも届けて
母と二人で遺体を拭いて棺に納め、翌日に火葬場に借りてきた荷車で祖母を運んだ。
遺体を実際に清めるという作業は後にも先にも、その時だけだったが今にして思えば
当時葬儀屋はなく家族で誰か死ねば家族一同「おくりびと」と自宅葬を執り行われた。
13歳の少年といえども家長である以上、当然の行為で祖母の旅たちの手伝いだった。
祖母を荷車にひいて火葬場に行くとき、妹は泣きながら付いてきたが妹に「泣くな!」
自分は怒鳴っていた。泣きたい気持ちを我慢しながら暑い道程を歩き、祖母と別れた。
実は自分は「お婆ちゃん子」だった。父は兵役で、母は勤めがあり、婆の世話になった。
優しかった祖母だった。明るく話し上手で子守唄から怪談話まで祖母の言葉で育った。
祖母の思い出は語ればきりないが生まれてこの方、一緒に暮し大阪→福島→関西と
自分とって13年間、突然消えた。貧しいさなかに亡くなった祖母は悔しかっただろう。
いつか黄泉の国で祖母と再会した時、祖母が好きだったマムシ(鰻)を御馳走したい。
しかし苦しかった遠い出来事も今はいい思い出だ。終戦から上京までの僅か数年間、
今に思えば、自分にとって人生の中身をいっぱい凝縮された宝物のような時間だった。
飢餓、貧困、買出し、農作業、そして初恋、どのひとつをとっても豊かな現代の
子供に通じない。混乱の昭和を体験させて頂いただけでも神に感謝したい。