小僧日誌 その五

一口に帽子製造といっても種類によって工程が大きく違っている。生地を裁断、縫製の学帽、キャップ、婦人帽・・手編みや機械で編むベレー帽、ニット帽・・麦藁や真田を手加減で仕上げるカンカン帽・・フェルトやパナマの帽体を仕上げる中折れ帽・・等々それぞれ製造に使う機械、ミシン、部品も違っているので一概に帽子製造も多種多様で、難しさは創造する技術を掴むことで一人前になるためには5-10年はかかる。働いた店は縫製業だったのでミシン、アイロン、仕上げの方法を教わった。帽子は洋服と違って小物製品は直線縫いが少なく、扱いが繊細で難しく気が抜けない。最初の地縫いから熟練まで継続と忍耐だけが修行の世界・・細かい作業の説明は省略するけれど、裁断も特殊な手包丁で生地を重ねて裁断する。小僧には労働基準法も無く、仕事から得る収入もお礼奉公で、手当もアテにならない。小僧の目的は腕に職を覚えれば、自宅で作って良し、努めるのも良しで食べるに事欠かない。しかし一個作ってナンボの世界なので職人には有給休暇はあり得ない。職人の繁忙期には家族たちは盆正月も無く、追われる一方で、閑散期には仕事も少なく、収入も減って食べるに事欠いた。当時は学生帽が売れたけれど、夏に作るとカビが生えて肝心の時期には売り物にならなかった。ボクの務めた店は春には主にセーラーハットを作り秋からは学生帽を生産した。当時の学生の殆んどが帽子を被り、一年中仕事の忙しさは絶えることが無かった。学生帽のカタチは大きく分けて四種類。一高型、三高型、慶応型、早稲田型。主に小学生は三高型、中学生は慶応型、高校生は一高型を被り(学校によっては違っていた)特殊学校は、それぞれ制帽のカタチがあった。売れる時期が決まっているので注文の数を増やす為、入学時期までは多忙を極め毎夜遅くまで働いた。正月を始め冬の間は休日もなく帰郷も春になってからの行事だった。昭和25年、突然、朝鮮戦争が始まった。世間の景気は上向き始め、朝鮮戦争特需もあって、大きな企業は大量に従業員を集め、地方からの集団就職も始まり、待遇のいい企業へと人々は流れ、長い間続いてきた丁稚小僧の徒弟制度も次第に崩れ、労働関係も徐々に変化する時代になっていく。しかし世間の景気と裏腹に、職人が減っていったのは、帽子流行の衰退、輸入品の価格破壊も要因だが、日々コツコツとミシンに向かう姿と、仕事の割に稼ぎの少なさを息子が親父の背中を見て、跡継ぎを諦めたのが最大の要因と感じる。