小僧日誌 その九

先輩の家に一週間ほど泊めてもらったが、先輩が詫びを入れて会社に戻るよう叔母に頼んでくれ、社長と叔母にこっぴどく叱られて元の職場に戻れた。再入社してしばらくは真面目に仕事に取り組んだ。役所からの指導で夜遅くまでの残業はなくなり、休日も月二回のシステムになり、手当も少しは増えて、自分の自由時間も僅かながらも持てたが、サラリーマンと違って、お客の要望や季節商品なので自由時間はいつでもと言うわけで無い。閑散期には夜8時までの仕事も、忙しい時期には一定のメドまで、午前様だって厭わなかった。昭和20年代は台風の多い年だったが、大型台風が日本列島を襲った。しかし進駐軍は台風に女性の名が付け、アイオン、スター、カスリーン、ジェーン、キティー等々洒落たことをしたが今のような治水設備が少なく、特に下町などは大雨の降るごとに道は川となり床下浸水など被害は大きかった。総武線などの一部のガード下は何日も冠水で通行止めだったし、キティー台風の時などは中川が氾濫し、職人が多く住む、足立、葛飾、江戸川の殆んどが水没してミシン等の道具や商品などの被害が甚大だったこと、後片付けを手伝ったことなど、今も目に浮かぶ。当時は京葉道路水戸街道などの幹線道路も川に架けられたのは木橋だったが其の後、鉄橋に架け替えられ、中川放水路などが完成されて下町の治水が良くなっていった。当時では蔵前橋通りはまだ無く、亀戸や平井あたりには空き地が多く、大人も草野球で遊んだり、子供たちはチャンバラごっこなどで駈けずり、道路脇には紙芝居屋が幼児たちを集めていた。葛西橋の荒川沿いには釣り人多く釣宿などあってハゼの餌のゴカイや竿、ウキなど釣り具が売られていた。休日など、この辺りは気持ちものんびり出来たし葦のざわめきなど今も聞える気がする。仕事のほうは、朝鮮戦争特需や警察予備隊などの受注で忙しく、各官庁の仕事、問屋も反物単位での注文など、昼夜追われた日々が続いていた。思えば、このあたりの年代が戦後の帽子業界の最盛期であったかも知れない。