小僧日誌 その十

小僧が22才の春、社長が初めて名刺を作ってくれた。会社名と営業部と印刷された自分の名前を見たとき、これで大人になれたんだと感無量の思いがした。そのほかにもスーツやネクタイ、靴も新調していただいた。それは二人の番頭さんが病気などの理由で相次いで辞めて、小僧が年齢のわりに早く番頭の役目を仰せつかったからだが、とくに官庁からの仕事が多く、防衛庁、郵政省、警視庁、法務局など契約、入札、検査、納入などで訪れること多く背広姿は必須だった。小僧にとって様々な書類の作成や同業者、関連業者との触れ合いなど貴重な体験と勉強をさせてもらった。神田の村田簿記の夜学に通えたのも素晴らしい勉強だった。大きな声で言えないが官庁の仕事は指名入札だったので業者で談合が行われた。昨今では談合=悪だけれど、一度の注文が何万個単位で(防衛庁では10数万個)一社では賄いきれず、業者間で仕事を分担しなければ納期に間に合わず、やむを得ないと思う。それと予定価格も経済の変動もないかぎり、そして決まったデザインなら、役所も一社の契約で済むメリットもある。自分も職人なので官帽の製品に関しては即答できるのも重宝された。それでも22才の若造が業界の先輩たちの見よう見真似で、仕事をするわけだから、失敗や勘違いなど多く、その度、謝り行脚に明け暮れたが、いい経験をさせてくれたとつくづくと思う。問屋の場合、毎日の御用聞きの他に年に二度、熱海、湯河原あたりの温泉で、組合主催で今の展示会のような見本市をメーカー別に各部屋で行われ、得意先を招待してお座敷で商売をしたが、その日に備えて品揃えや諸々の段取りの縁の下は大変な思いをした。展示会が終わって、社長さんたちは夜になると芸者を挙げての飲み会と余興に酔っていたが、小僧たちの部屋なくサンプルの品々を纏めて車に積んで夜の東海道をひたすら帰路についていた。休みは有って無きが如し、中小企業の会社には労働基準法など有名無実の代物に過ぎない。今に思えば気苦労もあったが、あの頃が最も輝いていた小僧時代だったと回顧している。