小僧日誌 その十二

仕事は順調だったけれど、小僧が全て順風満帆というわけでない。道に外れた時もあったし、悪夢の日も忘れかけた、そんなある日、母からの手紙で、父が戦時に負傷した傷の悪化と、結核の再発で、少しでもいいから送金してくれないかの便りがきた。今までの様子で、少しの覚悟はあったが、少ない預金全てを送金し、小僧の小遣いも殆んど消えてしまった。その後も月々出来る範囲で送金を続けた。母は近所の食品屋から頼まれ家の中で煎餅を焼いていた。どれくらいの収入かは尋ねなかったが、病気の父と、幼い子供4人を抱えて働く母の苦労を思えば長男として少しでも送金するのが責務であり、多感な小僧の気持ちは少しでも家族の援助に燃えた。これから自分を律すること、無駄をしないこと、そのことが仕事の情熱と、覚えることの大切さと、いつか独立して父母兄弟の面倒をみなければの決意を新たにしたことは良かったと思う。お金は無くても、懸命に仕事をすれば信用も付き、いつか芽の出る時が来る。夢を持って仕事ができたのも父母の励ましと考えた。今でも質素な暮らしを続けているのも、あの時の体験と習慣が残る。老後の幸せの基は健康、経済、家族だが父母が教えてくれた。閑話休題。会社はキャップやハットなど男物が中心で、女物は作っていなかったので将来を見越して、社長の承諾を得、小僧は婦人帽子作りを教えている代々木のサロンドシャポーに通うことにした。一週間一度の夜の授業で、趣味的な個人用の婦人帽子作りで、シャポーは量産する帽子メーカーには不向きだが、婦人帽のセンスや感覚を知っただけでも勉強であり、早速会社も婦人帽を取り上げ、サンプルを何点か作り問屋に見せたら好評を頂き、注文を取れたことはメーカーの自信を得た。独立後の現在でも婦人帽を量産しているがポイントを知っただけでも二年間通った甲斐があったと今も自負している。商売的にも婦人帽生産の依頼があったり、オリジナルの製品を作って問屋に買っていただいた。朝鮮戦争需要、高度成長期、大阪万博需要など帽子メーカーにも大きな山場を経験し、良き時代もあったが、戦後の物不足時代が解消されだすと需要に影を落としていく。帽子に限って言えば、世間は無帽が流行的になり、学生帽が影を潜め、不景気の影が忍び寄る背景で、婦人帽生産に企画したことは会社にご奉公出来たと自己満足した。